聖書:使徒言行録10章25~35節

ペンテコステは主イエスが天に帰られた後、教会に聖霊が与えられたことを記念する日です。私たち首里バプテスト教会は、今年で創立66年を迎えますが、この地に福音が宣べ伝えられるまでにも神さまが聖霊を送り続け、いまの私たちに続いているのだろうと思うと、大きな感動を覚えます。

今日の聖書箇所のコルネリウスとペテロの話は、「主イエスキリストの十字架と復活・救い」が全人類に及ぶきっかけとなったことを象徴するお話です。当時のユダヤ人(ユダヤ教徒)は、律法を守ることで救いが得られると信じていました。そして、律法はユダヤ人だけに特別に与えられたもので、ユダヤ人は神から選ばれた民であり、外国人は汚れていると交際を禁じていました。
その頃、ペテロはヤッファという港町に、十字架と復活の主イエスキリストこそ救い主であるとユダヤ人に伝えにきていました。
同じ時、ユダヤの国を支配していたローマ帝国の兵隊であるコルネリウスに神さまから「ペテロを招きなさい」という幻が示されます。そして、コルネリウスは3人の使いをペトロに遣わします。3人がペテロの居るヤッファに近づいた頃、ペテロにも幻が与えられます。
それは、天から大きな布のような入れ物がつるされて降りてきます。その中には律法で汚れているとされる獣、地を這うもの、鳥が入っており、神さまが「それを屠って食べなさい」と語るのです。ペテロが「とんでもない」と断わると、「主が清めたものを清くないなどと言ってはならない」と主が諭され、このやりとりが3度も繰り返されたと記されています。
この幻は、律法を守って生きることを努力してきたペテロの生き方に逆行するものであり、また、3度も繰り返されたことは、イエスを3度知らないと言ったペトロの苦い思い出を連想させ、ただならない危機感を覚えたでしょう。ペテロはその幻のことで頭がいっぱいになります。しかしペテロは、聖霊に背中を押されコルネリウスの待つカイサリアに出発します。

ペテロ達が到着するとコルネリウスは家族、親戚、友人らを集めて待っていました。「今わたしたちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前にいるのです。」というコルネリウスの言葉に、ペテロは神さまがユダヤ人だけでなく、すべての人を救おうとしていることを確信します。あの幻はこのことだったのかと、そのために遣わされたことを知ります。これまで、異邦人は汚れたもので、関わらないようにしていたのに、まして、ユダヤの国を支配しているローマの兵隊に本当の神さま、イエスキリストの十字架と復活・救いを語ることになるとは…。神さまは異邦人をも救いに導いている。ペテロにとって当たり前と思っていたことが打ち砕かれる、思いもよらないことでした。

考えてみると、私たちもペテロと同じように様々な固定観念から人の善し悪しを判断しているように思います。私も、キリスト教系の教育を受けた人を肯定的に見る傾向や、また、キリスト教には寛容であっても、他宗教には厳しく接っする傾向があり、ある宗教の訪問者を無下に扱った経験もあります。根底には、私たちは正しいという思い込みがあるのではないかと思います。そして、その正しさを押し付けようとし、周囲の人を巻き込もうとします。
家族に教会に行かない者がいれば、教会へ行かないその人に問題点を見つけようとしますし、教会に若者を招き入れたいといいながら、私たちに都合の良い若者像を押し付けようとする傾向はないでしょうか。「あの人は○○だから…。」と相手の事情を勝手に推測し、「思い込み」「分け隔て」していることに気づかされると同時に、「変わるべきは相手である。」という強い思い込みが自分にあることに気づいていない私たちがいます。

ペテロは神さまに示された幻によってこれまで絶対視していた異邦人に対する思いをひっくり変えさせられました。同じように私たちこそ変えられないといけません。しかし、私たちは頑なです。自分の正しさを手放すことができない弱いものです。ペテロのように変わることができるでしょうか。
ペテロは3回、同じ幻を見せられても意味を理解しませんでした。「ためらわずに一緒にいきなさい」「私があの者たちをよこした」という聖霊の後押しがあって、はじめて重い腰を上げたのです。そして、コルネリウスと出合ってはじめて幻の意味を理解することができました。ペテロは変わったのではなく、神さまによって変えられたのです。変わることができるかどうかは、私たちの努力次第ではなく、神さまが私たちにはたらき続けた結果、神さまによって私たちが変えられているということがわかります。
今回のコロナの件でも、「これまでの首里教会の礼拝が正しい礼拝である」という思い込みがありました。インターネットでの礼拝や礼拝プログラムの短縮、献金の捧げ方の変更など、思ってもみなかったことが次々と起こされ、もうひとつの新しい首里教会の礼拝が起こされました。この礼拝に励まされたことは、私たちが変えられたというひとつの証になったと私は思っています。

主が隔ての壁を取り除かれ、ペテロの頑なな思いが変えられて、主イエスキリストの十字架と復活の救いを語ったとき、聖霊がくだり、異邦人も神を賛美したと聖書に記されています。その同じ聖霊の風が、私たちにも吹き続けています。神さまは私たち首里教会に、これからどのような人たちを引き合わせ、繋ぎ合わせ、福音を前進させようとしておられるのでしょうか。私たちが聖霊によって変えられながら歩むとき、それが証となり、教会が活き活きと生かされることになるのではないでしょうか。

「わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、バプテスマを受けるのを誰が妨げることができますか」という、頑なな思いを変えられたペテロの喜びと感動に私たちも与っていきたいと願い、このみ言葉を覚え、礼拝から始まる一週間を過ごしていきたいと願います。

説教者:M.Y(首里バプテスト教会員)