新型コロナウイルスの影響を心配していましたが、何名かはお休みでしたが、いつも通りの主の日を過ごすことができました。

今日は、3月第一主日でしたので「主の晩餐式」をしました。残念ながら、パンとぶどう汁を配ることは断念しましたが、バプテスト教会としてパンやぶどう汁という象徴がなくても主の十字架の苦難と希望を想起することは出来ると牧師から説明がありました。いつもは、パンを食べる時にむせないようにとか、ぶどう汁をこぼさないようにとか、余計なことを考える必要がない分、静かに主の十字架と復活に思いをはせることができたように思います。同時に、新型コロナウイルスの影響で悲しい思いをしている方々のために祈るときにもなりました。

今日のお花は、春らしいピンクの花たちが、嬉しい気持ちにさせてくれました。柴田牧師のネクタイもピンク!明るい気持ちで礼拝できました。

 

説教は「「見える」という罪を」ヨハネ福音書9章1~7、35~41節。障害や病は「この人に神の業があらわれるためである」というイエスさまの言葉は、ギリシャ語では「この人に神の業があらわれる。」という宣言だったと話されました。「ためである。」がないことで、イエス様は質問に答えたのではなく、質問そのものを退けたのです。つまり、病や障害は何のためか?という質問は、過去に理由を探す質問で、誰のせいかと犯人捜しをしているのです。しかし、イエス様は病や障害があるそのままのその人に「神の栄光は現れているのだ」と言われるのです。イエス様は今を肯定し未来の希望を見ておられる方なのですね。新型コロナウイルスの影響で右往左往する私たちに必要なみ言葉だったと感謝します。