説教「さあ、ここから」聖書 ヨハネによる福音書 21章1~14節

*迫害の中で聴くメッセージ
ヨハネによる福音書はヨハネ教会(教団)の人々に向けて記されました。ユダヤ教から迫害され、会堂から追い出され、死の危険にさらされても、「イエスは主」であることを告白し続けた、そんなヨハネ教団に向かって、この福音書は記されました。

*復活の主による派遣
十字架の後、鍵をかけ閉じこもっていた弟子たちに、復活の主が「あなたがたに平和!」と語られ、息を吹きかけて宣教へと遣わされました。それでも鍵をかけ閉じこもっている弟子たちに、再び復活の主は「信じる者になりなさい」と出会われる。二度に渡る主との出会いを経て、弟子たちはやっとガリラヤという宣教の場へ向かいます。

*真っ暗な闇の中で
弟子たちは、気概に満ちて漁をしていたのに、魚が全く獲れない。徐々に気持ちが萎え、疲れ、無力感に包まれます。「やはり、無理だ!」「一体、この先どうなるんだろう…」弟子たちの嘆きは、迫害されているヨハネ教団の人々の心の叫びと重なります。そして、私たちが心に抱えこみ、抑え込んでいる心の叫びにも重なるのではないでしょうか。ウイルスへの対応に格闘し、激変した生活に疲れ、不安をあおる情報の中で、誰もがストレスを抱えています。まるで暗闇に向かってむなしく網を投げ続けているようです。投げても投げても、徒労に終わる。それが続けば、やはり心もとげとげしくなります。先週私たちは、どれくらいため息をついたでしょうか。

*暗い夜は必ず明ける!
そんな私たちを、神は見ておられます。放っておきません。なぜなら、神は愛だからです。愛の塊だからです。愛の主イエスは、夜の間もずっとそこにおられ、苦闘する弟子たちと一緒に夜を明かしてくださった。そして、「夜は必ず明ける。ため息に満ちた闇は決して続かない」と励ましておられたのではないでしょうか。

*見えてるのに分からない
しかし弟子たちは、夜が明け、主イエスを見てもなお分からないのです。私たちも同じです。毎週礼拝していても分からなくなる。聞こえなくなる。目の前のこと、私のことでいっぱいで、復活の主が目の前におられるのに見えないのです。

*だから、「今日」礼拝へ!
だから、主イエスは「今日」呼びかけます。私たちを「今日」礼拝へと招くのです。
礼拝は主の「子たちよ」の呼びかけ、招きによって起こります。
弟子たちが主の呼びかけに応えて漁をする中で、やっと「ああ、そうだ、あの方は主イエスさまだ!」という信仰告白が起こされた、そして、弟子たちのために用意した魚とパンを見た時、改めて豊かに与えてくださったイエスさまの奇跡を思い出し、信仰告白へと導かれた。イエス様が招かれた礼拝によって、弟子たちは復活の主を知ることになったのです。

*「さあ、ここから!」
先週も、みなさん混乱の中で懸命に生きられました。そういうあなたを主イエスは愛してやまないのです。夜の間もずっと「私の子たちよ」と呼びかけておられる。だから「今日」礼拝が起こされました。主イエスは呼びかけます。だから礼拝は決して妨げられない。礼拝で、私たちは「主よ!」と告白できます。
礼拝で、復活の主を分からせていただくのです。
「さあ、ここから!」この礼拝から今週をはじめてまいりましょう。