私はクリスチャンホームに生まれたのではありませんが、今ここに「招待」されています。ここにいる前も、何度か「私宛の招待状」は届いていたのでしょう。思い起こせば心当たりはかなりあります。その招待状は、「(よくある結婚式への)招待状」ではありません。そちらのほうは届いたのがすぐわかるので返答もすぐできます。でも「私宛の招待状」は、いつも目の前に届いていたのに、見ようとしないので見えませんし、それがささやく声も聞こえません。もちろん、開封などしませんでした。
しばらくして、私は「私宛の招待状」を開ける時が与えられました。それは「これから披露宴があるのでこれを着て出席してください」と、小さくささやきました。「こんなわたしでも招かれているんだ」と思い、古い衣を脱ぎ、新しい礼服に着替えました。古堅先生(が牧師だった)時、私は妻とここで結婚式をあげました。「私宛の招待状」は、いつのまにか「私たち宛の招待状」となりました。
私たちは、今ここにいます。神は御国にすべての人を招いておられます。日々「招待状」は、気づかないうちにそばに置かれ、「今は恵みの時、今は救いの日です」とささやいています。感謝します。(M.K) 2019年6月2日週報