「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(使徒言行録2章1~4節)

今月、私たちは聖霊降臨日(ペンテコステ)を迎えます。このペンテコステに、約束されていた聖霊が降りました。聖霊とはギリシャ語で「プネウマ」。この元々の言葉は「プネオー」で、「息をする、吹く」という意味です。つまり、聖霊(プネウマ)とは「(神の)息」であり、「(神の)風」なのです。主イエスはこの聖霊のことを、「風は思いのままに吹く」(ヨハネによる福音書3章8節)と、語ってくださいました。この風は私が操作したり、利用できたりするものではなく、神さまの思いのままに、あの人にもこの人にも吹き続けているのです。
では、この神さまの風に触れる時に何が起こったのでしょう。それは、みんな一人ひとりが神さまのすてきなメッセージを、その人にしか出来ないあり方で語りはじめたということ。みんな一人ひとりが宣教者に変えられたということです。
私が神さまのすてきなメッセージを最初に聴いたのは、牧師でも宣教師でもありませんでした。家庭教師をしていたご家庭の方からでした。皆さんの中で、自分一人でふと突然教会に行こうと思った方はほとんどおられないでしょう。家族、友人、職場、学校など、その誰かに。
また、教会学校や聖書を共に読み合う中で、誰かが「私こんな風に思うんだ」というその言葉で励ましや慰めを与えられたことが多々あるのではないでしょうか。例えば、私自身も幼稚園の子どもたちからよく励まされます。ある時、私がメッセージした後、ある子が「神さまだって寂しいんだよ」と、私に応答してくれました。つまり、神さまが切実に呼びかけているのに、私たちが違う方ばかり見ているから神さまは寂しいんだと。神さまの気持ちに焦点をあてたその子の応答にドキッとさせられました。私はあの風がその子に吹いて、その子が私への宣教者として用いられたのだと、今も思っています。
聖霊は私たち一人ひとりを神さまのすてきな思いを伝える宣教者にしてくれるのです。ペンテコステの時、聖霊はある特定の人だけではなく、集っている全ての一人ひとりに降りました。牧師や宣教師のみがメッセージを語るものではありません。聖霊によって、みなさん一人ひとりに神の言葉は開かれるのです。バプテスト教会はバプテストとしての固定化した教理を持たずに、聖霊の導きの中で一人ひとりが聖書を読み、解釈へと導かれることを大切にしてきました。聖霊が一人ひとりに示されるそれぞれのメッセージを互いに聴き合い、対話しあいながら、聖霊の導きに信頼しつつ、共に歩んでまいりましょう。柴田良行牧師、(『沖縄バプテスト』第803号、2024年5月1日発行の巻頭言より)