今年は、慰霊の日が主の日となりました。沖縄戦を体験された姉妹に証しをお願いしました。収容所の中で、父親が牧師という同級生の妹のキリスト教式の葬儀に参列したことがあるそうです。あの時からの、神さまの伴いを証されました。
説教では、十字架に向かうイエスさまが、剣で脅して逮捕しようとする人々に向かって剣で応戦しようとしたペトロをいさめて、「剣をさやに収めなさい」とおっしゃった聖書の箇所からでした。イエスさまは、十字架も苦難も避けようと思えばできたけれど、神さまのみ心にしたがって、そこへ向かっていこうとされた。しかし、弟子は見捨てて逃げ去ったのです。そういうイエスさまだからこそ、沖縄戦で命を失った誰一人、イエスさまは見捨てることをしない、むしろ、そういうお一人おひとりの死の間際にも、イエスさまは十字架のイエス・キリストの苦しみの姿で共にいてくださり、抱きかかえて、共に死んでくださったのだと。
そして、生きている私たちは、理不尽に死んでいった者の声を聞くべきなのだと。もしも、死者の苦しみを忘れることがあるなら、私たちは死者を二度殺すことになり、さらに、子どもたち(未来)に対しても無責任になるのだと、モルトマンの言葉を引いて言われました。私たちは、十字架のイエスさまに救われた者として、イエスさまの十字架を無駄にすることはできない。ということは、この慰霊の日、はからずも死ななくてはならなかった方々の命の声に、静かに耳を傾け、「こんな戦争を二度としてはならない」という声に誠実に聞くことが、クリスチャンとしての慰霊ということなのだと思いました。
「剣をさやに収めなさい。」愛する人を守るためにであっても、剣をとることをしてはならないといさめたイエスさまの言葉に、今一度、聞いていきたいと思います。