聖書:テサロニケの信徒への手紙 Ⅰ 1章1~10節
外に出ることが出来ず家にいる間に、「神の小屋~アメージングジャーニー」という映画をみました。三位一体の神が、性別も人種も違う役者で登場して素敵だなと思いました。例えば父なる神が黒人の女性、聖霊はアジア系の女性などです。この映画のテーマは「ゆるし」なのですが、「ゆるし」は律法のように「ゆるさなければならない」というのではしんどいですね。しかし、この主人公マックに三位一体の神が、取り囲むようにして対話しつづけ、そして、彼自身の傷をいやしてゆくのです。そして、「ゆるし」が、彼自身を解放することへと導くのです。ゆるさなきゃ、ではなく、ゆるすことが、福音そのものであると。ぜひ、みなさんも機会があればみてください。
やはり、神はとことん愛の塊で、あなたを愛し、解放したいと願い続けていることに、改めて気づかされました。私たちも、私たちを取り囲むようにして三位一体の神が、私たちを愛し、心配し、愛に生きるように導いておられます。
さて、パウロはテサロニケの教会に手紙をかきました。テサロニケはローマ帝国マケドニア州の首都で、属州総督もおかれていたところです。
パウロたちが伝道した時、イエス様が救い主であると信じる人たちが起こされたのだけれど、ユダヤ人からも、ローマ当局からも厳しい迫害を受けていたところです。パウロは心配してテモテをテサロニケに送るのだけれど、そのテモテから、厳しい状況の中でもテサロニケのみんなが、主にあって互いに励まし合いながら歩んでいる、と報告を受けます。それで、パウロは、歓喜の思いをこめて手紙をおくるわけです。
2節「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。」
離れていても、より近くにテサロニケの教会を思い、感謝の思いで祈っているし、テサロニケの人たちも、パウロたちのことを祈っている。これが手紙の冒頭です。私たちも、会堂で礼拝ができず会えませんでした。でも不思議だったのですが、この環境的には厳しい状況の中で、場所はみんなバラバラだけれどつながっている、一つの首里教会なんだと実感させられました。
そして、みなさんも、会えないけれど皆はどうしているか、そんな思いをお互いに与えられて、祈祷会も集まれなかったけれども、より一層、祈りがおこされたと思います。会うことはできない、離れているけれども、私も、あなたも祈られているから大丈夫、そんな感覚がありました。互いのとりなしの祈りによって、私たちは支え合ってきたんです。しかも、聖霊によるとりなしがありますし、イエス様ご自身のとりなしがあります。私たちは、互いの祈り、そして、神さまからの祈りをシャワーの様にして受け続けてきたんです。
3節「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、私たちの主イエス・キリストに対する、希望をもって忍耐していることを、わたしたちは絶えず、父である神の御前で心に留めているのです。」
パウロは、そういうテサロニケの人々の歩みを主に感謝しているのです。この3節は、一生懸命働き、労苦し、忍耐して、よく頑張っているねということを言っているのではないのです。これは、パウロがよく用いる霊の賜物のことです。「信仰、希望、愛」これらは私たちへの神様からのプレゼントなんです。
「信仰によって働き」は、「信仰から生ずる働き」であり、「愛のために労苦し」は「神の愛から生ずる労苦」、そして「希望をもって忍耐」は「キリストへの希望から生ずる忍耐」なんです。がんばって働いて、労苦して、忍耐するんじゃなくて、神さまからの賜物である信仰、希望、愛から生じてくるものが、テサロニケのみんなににじみ出ているよってパウロは言っているんです。
それは、ここ最近の私たちの状況と重なってきます。
会堂に集まることが出来なくても一緒に礼拝したい。その思いが与えられ、教会役員も、主事も、事務も汗を流しました。説教原稿と週報を礼拝に間に合うように、郵便やファックスや直接届ける。最初は緊張したカメラに向かっての礼拝でしたが、そのうちに、あのカメラの向こうに一緒に礼拝する兄弟姉妹がおられると思うとそれだけで、励まされ嬉しくなっていきました。ホームページも、教会員専用ページが開設されて活用されるようになりました。このホームページの保守をして下さる方がクリスチャンで、色々相談に乗ってくださいました。
日曜日の10時30分に同時刻に礼拝したい。みんな突き動かされるようにして、そこに向かいました。これこそ、信仰から生ずる働きですし、神の愛から生ずる労苦でしょう。みなさんも、離れていても祈り、お互いに電話をかけて「どうしてるって」励まし合ったりされたことと思います。
そして、また会堂で必ず会える、一緒に礼拝できる、という主にある希望をもって、忍耐しつつ、この時を過ごしました。テサロニケの人々に起こされたことと、同じことが私たち首里教会にも起こされているのです。
「信仰、希望、そして愛」は神様からのプレゼントです。無条件で、神さまが、「あなたにあげるよ、受け取ったらいいんだよ」そう語っておられます。
私たちの世界では、がんばったら、いい人間になったら、なにかをもらえる、それが常識です。しかし神さまは、大盤振る舞いしてくださいます。「信仰も、希望も、愛もあげるよ、ただ、受けたらいい」と、おっしゃてくださっているのです。「くもの糸」の様に、細い切れそうな糸をがんばってよじのぼらなくっていいのです。むしろ、イエス様が私たちのどん底におりてきてくださったでしょう。神は、その独り子さえ、私たちを愛するがゆえに送ってくださいました。だから、もう誰も犠牲になってはだめだよ、イエス様だけが十字架に架かり、罪を引き受け、私たちに赦しの和解を与えてくださいました。それが福音です。
5節「わたしたちの福音があなたがたに伝えられた」とは、「福音はあなたがたの中で出来事となった」です。福音は私たちの中で出来事になるのです。神は、私たち首里教会を用いて、福音を出来事にしてくださいました。私たちの中に、福音の出来事がいっぱい詰まっています。互いにねぎらい合いながら、励まし合いながら、福音の出来事そのものである十字架と復活のイエス様によって、一緒に歩んでいきましょう。