聖書 使徒言行録2章1~13節

風を感じながら 
ここしばらくは、換気のために窓を開けて礼拝をささげています。窓を閉め切っていると聞こえなかった鳥の鳴き声がよく聞こえてきます。会堂の中を通り抜けてゆく風を感じながら、礼拝をささげるというのは、新鮮でもあり、不思議な感じもいたします。今月は、まさにその「ふしぎな風が」を歌っています。今日は、説教の後で歌いますが、この歌詞にいつも励まされます。
「ふしぎな風が びゅうっとふけば、なんだかゆうきがわいてくる。
イエスさまの おまもりが きっとあるよ。それが聖霊の働きです。
主イエスのめぐみは あの風とともに。
ふしぎな風が びゅうっとふけば、いろんなことばの人たちも、その日から 友だちに きっとなれる。それが教会のはじまりです。世界の平和も あの風とともに。
ふしぎな風が びゅうっとふいて、こころの中まで強められ、神さまの子どもに きっとなれる。それが新しい毎日です。わたしのいのちも あの風とともに」

不安と戸惑いを抱えていた者たちに
復活されたイエス様は、あの弟子たちに「エルサレムから離れないでいなさい」と言われました。そこは彼らが主を裏切った場所、挫折した場所であり、できれば、さっさと逃げ出したい場所でもありました。けれども、あのふしぎな風は、まさに不安と戸惑いを抱えながらも集まって祈っていた弟子たちに吹いたのです。

聖霊=神の息、神の風
2節「突然激しい風が吹いてくるような音が」とあります。聖霊とはギリシャ語で「プネウマ」。この元々の言葉は「プネオー」で、「呼吸する、吹く」という意味です。つまり、聖霊(プネウマ)とは「(神の)息」、であり、「(神の)風」なのです。
私はイエス様を信じてからしばらくは、聖霊のことを、霊とあるので「幽霊」の霊のようなものとしてイメージしていました。「イエス様を信じたら、その聖霊が自分の中に入ってきて、ずっと自分の中にい続けるのだ」と。
けれども神学校で、ギリシャ語の意味と同時に、聖霊は神からの賜物であり、自分の所有物ではないことを教えられました。つまり、自分の持ち物、所有物ではないのだから、「イエス様を信じている私には聖霊があって、イエス様を信じていないあの人にはない」なんて言えない、ということを教えられたのです。
「風は思いのままに吹く」と、主イエスが語られたように、あの風は私が操作したり、利用できるのではなく、神さまの思いのままにあの人にもこの人にも吹き続けているのです。

一人ひとりが宣教者に
では、この神さまの風に触れる時に何が起こったのでしょうか。
それは、みんな一人一人が神さまのすてきなメッセージを、その人にしか出来ないあり方で語りはじめたということ。みんな一人一人が宣教者に変えられたということです。

私が神さまのすてきなメッセージを最初に聴いたのは、牧師でも宣教師でもありませんでした。家庭教師をしていた方のご家族から、お話を伺いました。皆さんの中で、自分一人でふと突然教会に行こうと思った方はほとんどおられないでしょう。誰かから聞いているはずです。家族、友達、職場、学校など、その誰かに。
教会学校でも、誰かが「私こんな風に思うんだ」というその言葉で励まされたり、慰められたりしたことでしょう。
例えば、私も幼稚園の子どもたちから、よく励まされます。ある時、私がメッセージした後、ある子が、「神さまだって寂しいんだよ」って応答してくれました。つまり、神さまが切実に呼びかけているのに、私たちが、違う方ばかりみているから神さまは寂しいんだと。その子の応答にドキッとさせられました。私は、あの風がその子に吹いて、その子が宣教者として用いられたのだと、今も思っています。
あの風は、首里教会のみなさん一人ひとりを神さまのすてきな思いを伝えるメッセンジャーにしてくれるのです。

つなぐ、分かりあう、響きあう
あの風は語る人だけではない、聴く人にも及びました。聴いていた人々は、主イエスを信じてない、熱心なユダヤ教徒でした。外国に散らされたユダヤ人や、ユダヤ教徒に改宗した元々外国の人もいた、そんな人々にも風は及ぶのです。
「あのガリラヤの人たちが、私が知っている言葉で話してくれている!」「ああ私もだ、私の故郷の言葉で話しているぞ。」
こうやって、元々大きな溝や断絶があるもの同士が分かりあうのです。お互いの心に言葉が響きあうのです。バラバラなものがつながれるのです。反目していた者に和解が起こるのです。
ウイルス対応で、今は距離をとること、近づかないこと、手を触れないこと、そのことにばかり意識は向いていますが、それでもなお風は吹いています。こんな状況の中でも、神ご自身が、私たちをつなぎ続けていてくださるのです。

一瞬一瞬、新しい風に
この説教のために黙想している時、干してある洗濯物に目がとまりました。ずっと見ていました。ゆらゆらと風に揺れ続けていました。そして、別の用事をすませて、またふと洗濯物をみると、その時もずっと揺れ続けているのです。「ああ!」と、気づきが与えられ嬉しくなりました。
この洗濯物は、その都度その都度、一瞬一瞬、新しい風を受け続けているのです。同じ風ではなくて、絶えず、新しい風を受け続けている。その中で、その干している物がだんだんパリッとしてくる。あたかも命が吹き込まれるようです。

聖霊に導かれて生きるとは、聖霊がその人の中に留まって動かないということではなく、もうどうにも止めようもないくらいに、一瞬一瞬、新しい風に吹かれ続けて生きるということです。私たち首里教会は、いつも、これでもかというくらい新しい風を受け続けているのです。
よく、プロ野球チームに新戦力が入ってくると、「新しい風が入って来た」なんて言います。
でもそれ以上に、私たち首里教会は、神さまからの新しい風を思いっきり受け続けているのです。それは、まるで、風がビュービュー入り込んでいる今日のような開けっ放しの会堂のようなものです。

よどんだ空気も、停滞した空気も、あの風は吹き飛ばしてくれるのです。

「ああ、どうせ…、やっぱり…、どうしようもない…、しかたがない…」、そんな私たちの不平や不満、ため息も、あの風が吹き飛ばし続けています。
あの風によって、神さまの暖かな思いがあなたに注ぎ込まれ続けています。そして、互いに語りあい、聴きあい、分かりあうこと、つながりあうこと、心が響きあうことが起こされ続けているのです。
こんなすてきな神さまの業を、あの風は首里教会に起こし続けているのです。実にふしぎでしょう、あの風は!
あのふしぎな風は、たとえあなたがそう感じなくても、あなたに確かに吹き続けているのです。
そうです、神さまのふしぎな風が、あなたに、首里教会に新しく吹き続けています。