出エジプト記1章15~21節

神を畏れるということ
 今日の物語は、モーセさんが生まれる少し前のお話です。エジプトの王さまが、シフラとプアという助産師~赤ちゃんが生まれるのを助ける人~に命令を出します。「ヘブライ人に男の赤ちゃんが生まれたら、事故に見せかけて殺しなさい。」
シフラは美しいという意味の名前、プアは輝くという意味の名前、二人ともステキな名前をもらって大きくなって、赤ちゃんが生まれるのを手伝う仕事を、とても喜んでしていましたから、王さまの命令に驚き、怖くなりました。

シフラとプアは、聖書に「ヘブライ人の助産婦」と書いてあるので、彼女たちがヘブライ人と読めますが、同時に彼女たちはエジプト人でヘブライ人のための助産師とも読めます。もし彼女たちがエジプト人なら、王さまの命令に逆らってまでヘブライ人を助けたのはどうしてでしょうか。17節に「助産婦はいずれも神を畏れていたので」とありますが、それはどういうことでしょうか。

シフラとプアがヘブライ人だとすれば、もともとエジプトの王さまは違う国の王さまですから、そんな人間の王さまよりも神さまを信じ、畏れたから、命令に背けたとわかります。神さまは、その助産師たちの勇気ある信仰を喜んだからヘブライ人の数はますます増えたのだと。

では、彼女たちがエジプト人だったらどうでしょうか。エジプト人にとっては王さまは神です。けれども、助産師として沢山の出産に立ち会って、命をその手で取り上げてきた中で、彼女たちが命を大切にする思い、そして、その命を造り出す「神」を畏れるようになったとしたら、エジプト人であったとしても、その手の中に抱かれたヘブライ人の赤ん坊の命を、その手で殺すことなど出来なかったのではないか、結果として、命令に背くことになり、また王さまから問い詰められた時にも機転の利いた「口答え」をすることが出来たのではないだろうかと思うのです。

わたしは今まで、シフラとプアがエジプト人などと考えたこともなかったので、今回この示唆が与えられたことは幸いでした。この箇所は、神を畏れるということは、毎日聖書を読んで、祈って、礼拝に欠かさず出席して、そういう私の熱心さによって、信仰深くなるとか、そういう意味で神を畏れることが出来るのだと、だから、シフラとプアのように、何か起こった時に機転を利かせて「No」を言えるように、日ごろから励まなくてはと、そういう読み方も出来てしまうのです。

でも、シフラとプアはそうではない。ただ仕事に忠実であっただけです。妊婦さんと赤ちゃんが健やかに出産できることを一生懸命務めただけです。
「神を畏れる」ということは、特別な何か、何かあった時にちゃんとできる事ではなくて、わたしが毎日の生活をどう生きるかなのだと、そして、その生活の中で出会う「いのち」とどう向き合うかなのだと、そういう視点が与えられました。

神は命の神~「とっても良い」私の命
 さて「命を大事にする」ということ、これは特別キリスト教に限りません。
今日は、説教題を「命どぅ宝」としました。この言葉は、沖縄が辿ってきた苦い歴史の中から生まれ、そして沖縄戦、熾烈な米軍の攻撃の中で、味方だと思っていた日本軍からも見捨てられ、殺されるという、あの沖縄戦の経験から、大切にされてきた言葉と学んでいます。「いつかは戦の世が終わって平和な世が来る。いのちこそ宝。」そうやって、今を生きる力を得て来た人々の言葉です。

私たちクリスチャンは、この言葉を大切に思い、深く共鳴しつつ、しかし、根っこのところでは違うと言わねばなりません。私たちクリスチャンは、神が命の神であり、私の命を創り、私を生かし、私が生きることを願う神がおられる、だから、命は大事だというのです。

先週、柴田良行牧師が幼稚園のことを話されました。神は命を創造し、「トーブ」とっても良いと言われたと。だから、自分をハグして「トーブ」とっても良いと、みんなでしましたね。そうなんです。神は、あなたが、あなたの命が、とっても良いと感動をもって言ってくださる。神は、あなたを生かし、愛し、生きるようにと、そして、あなたもまた神の方を向いて、神を愛してほしいと願い求める神なのです。大事な命は、大事だから大切にしまっておくのではない、その命が生き生きと生きること、つまり愛されて、そして愛して生きる、そのための命だからです。思い出してください。神の与える命は、息ですね。息、プネウマ、つまり聖霊、風、とどまることのできない命なのです。

神は、私の命を用いて「神の国」を実現する。
 だから、この神の命を生きる私たちは、命ある限り神を愛し、神が愛する人を愛し、被造物を愛さずにはおれない。シフラとプアのように、です。

神は、この「愛すること」を、私たちと共同でするようにされました。愛は神から来ているにもかかわらず、神は無力です。神は私たちを愛するゆえにご自分で全部することを止めて、私たちに命を与え、その命を用いて、神と一緒に愛を実現し、神の国を、神のご支配を、この地上に実現しようとされているのです。

今もまた、神は、コロナウイルスに対して、ご自身で解決をもたらすことはなさらない。ご自身が創造し愛する命が脅かされる状況に、共に苦しみ・悩まれる。そして、私たちを用いて、神ご自身の愛を示したいと願っておられるのです。クリスチャンであろうとなかろうと、その神の愛する命を救うために、シフラとプアのように、命と向き合っておられる方々がたくさんいます。私たち教会は、その方々のために祈りたい。残念ながら、私たちに出来ることは、そう多くはない、むしろ、何もしないことが最善でもあるかのような中で、しかし、私たちには祈りがあります。シフラとプアにも、彼女たちのために祈り、支えていた人たちがたくさんいたはずです。その一人に、私たちも加わることが出来ます。日々祈る習慣がなくても、毎日の生活の中で、ふと思い出した時に、その手を留めて一言祈る事なら出来ます。それを思い出すだけでもいい。「応援します」と口に出せたらもっといい。今、私たちは、だれもがバラバラにされるのではなく、手を繋いで、一緒に頑張る時です。神さまが愛しておられる命のために。