コロナウイルス対策で窓を開け、挨拶の握手もしないで過ごしている礼拝。高齢の方の出席が減っていて、少し寂しいのですが、祈りでつながっていると信じて礼拝します。
昨日の光の子幼稚園卒園式の立派なお花がきれいです。卒園した19名の子どもたちやご家族のためにも祈ります。
さて、2月末からレント(受難節)に入って、主のご受難を思い聖書を読み進めています。とうとう今日は、ユダのお話。「イスカリオテのユダ」と聞くと、「裏切者」というイメージ。聖書にもそう書いてあります。でも、実は裏切ったのはユダだけではなかった。
ユダは弟子のひとり。イエスさまの身近で接していたのに、なぜイエス様を銀貨30枚で売り渡したのか、その理由は書いてありません。書いてあることは、ユダが銀貨30枚を受け取ってイエス様を引き渡したこと、そしてそのことを深く後悔して自分で命を絶ったこと。
ユダがイエスさまの近くで挨拶した時、つまり売り渡した時、イエス様はユダの企みを知っていてなお「友よ」と呼びかけました。ユダには、この「友よ」というイエスさまの言葉が深く残ったことでしょう。そして、引き返そうとしたけれど、時すでに遅く、自分の罪を自分で贖うために自らのいのちをもって決着をつけてしまいました。
そんなユダのことを最後まで愛しぬいて、裏切ったことも受け止めてなお「私のところに帰っておいで」と待ち続けたイエス様。そして、そんなユダのためにこそ十字架へと向かっていかれるイエス様。ユダほど、イエスさまの十字架の意味を深く、深く知りえた人はいなかったでしょう。
たった一人で罪を背負い死をもって償おうとしたユダ。そんなユダのために、たった一人で十字架を背負い死に向かっていかれたイエス様。ここに、愛があります。イエスさまの十字架は、絶望・孤独・見捨ての中にいる人にこそ必要であり、そういう人と伴われ、そういう人が生きるようにと招いておられるのです。ユダが一人ではなかったように、どんな人も一人ではないように、イエス様は一人で十字架上で死んでいかれたのです。
3月が終わり、4月に向かっていきます。年度が替わると、新しい出発・出会いが大人も子どももあることでしょう。それは、時には喜びですが、時には不安や孤独でもあります。また、新型コロナウイルスの影響で、未知の恐怖や心配でいっぱいの人もいることでしょう。しかし、イエス・キリストは、いつでも、どんな人も見捨てず、傍らにいてくださいます。
首里バプテスト教会も、主イエス・キリストに従うものとして、祈りを合わせていたいと願います。