説教「祈りから」使徒言行録12章1~17節
先週、幼稚園で「えんちょうせんせ~来てきて~」と手を引っ張られて、年長クラスに行ってみると、そこには天井いっぱいの「光の子プラネタリウム」。床に寝っ転がって鑑賞した園長先生は、子どもたちのうれしい気持ちも共有したそうです。旧約聖書の創世記で神さまが創造された世界を見て「見よ、きわめて良い」とおっしゃったのは、「さあ一緒に見てほしい、そして一緒に喜んでほしい、この素晴らしいものを!」という意味だそう。私たちは、神さまがそんな風にして創造した素晴らしい存在なのです。
ペトロが投獄されたとき、教会はペトロのために祈りました。でも、本当にペトロが戸をたたいた時、祈っていたはずの教会の人々はそれを信じることができませんでした。私たちも、祈りはしても本気でそれが実現することを信じることができないものです。とりあえず祈ってはみるものの、個人の祈りでさえかっこつけていたり、ポーズになっていたり。それでも、祈りから何かが始まる、祈りから何かが示され、神さまの思いに触れて、私たちは祈りから次の行動へと突き動かされていくのです。「この時代に、キリスト者として生きるとは、祈りと正義を行うこと」ボンフェッファーの言葉です。
説教を聞きながら昔聞いたクリスチャン・ジョークを思い出しました。
昔、干ばつが続いて困った村で、雨乞いのために教会に集まって熱心に祈っていると、なんと急に空が曇って大雨が降り始めました。人々は歓声を上げて喜び、誰一人家に帰ろうとしませんでした。なぜなら、だれも傘を持っていなかったからです(笑)~信じないものではなく、信じる者になりたいです~