7月に入りました。今月も会堂内での飲食は禁止(水分補給を除く)ですが、集会や委員会はほとんどが再開しています。とはいえ、まだまだ油断はできませんので、換気やマスクの着用、主の晩餐式も配餐はありません。それでも、顔と顔を合わせて祈りあい賛美できる幸せを感じます。
今月は、青年たちが礼拝で一緒に賛美したいと選んでくれた「花も」という歌を月の賛美歌として賛美します。これまでは、「こどもさんびか」が多かったので「大人」には少し難しく感じられたようですが、7月の晴れた空の下で主を賛美するにふさわしく、また、今の苦難の中で来るべき神の国を望み見つつ賛美するようなステキな歌です。一か月、共に声を合わせて賛美できたらと期待しています。
また、今日から親子礼拝と教会学校クラスが再開されました。コロナ禍の中で、教会・キリスト教も大切なものは何なのか、教会とは?礼拝とは?と問われています。新しい世界を、今こそ、共に考えていくチャンスなのかもしれません。
教会学校が出来なかった間、主日礼拝の説教は『聖書教育』のカリキュラムに則ってテサロニケを読んできました。おかげで、親子礼拝も教会学校も、主日礼拝の説教も同じ個所から聞くことになっています。様々な視点からの豊かな聖書の理解が与えられて、より深く重層的に神さまを理解することが出来るようで、とっても素敵だと思っています。聖書って、本当に面白いです。
さて、柴田牧師の説教は、「いつも喜んでいなさい…」という、とても有名なみ言葉を、まさに新しい視点から理解するお話でした。
テサロニケの教会は厳しい迫害の下でどうしているんだろうか。心配するパウロの下に、遣わしたテモテからグッドニュースがもたらされます。「彼らは大丈夫。迫害の下でもしっかりとみ言葉に立っています。」
それはまさに、グッドニュース!嬉しい知らせ、福音でした。3章6節「うれしい知らせ」のギリシャ語は、福音を意味する言葉です。パウロは続けて「あなた方の信仰により、私は生きる!」(3章7~8節)とまで言います。確かに私たちも、他者の証しを聞いて、その方に主が働いておられる事実に励まされることがあります。福音とは、まさに生きて働いておられる主ご自身。書き記された文字などではない、読んだり聞いたりした人を活き活きと生かし喜びをあふれさせるものなのです。パウロは、テサロニケの人々のことを喜んだだけではなく、彼らに働いておられる主、生きて働いておられる復活の主の福音を喜んだのです。
復活の主は、ヨハネによる福音書17章にあるように、「私の喜びが彼らに満ちあふれる」ことを望んでおられます。だから、どんなに深刻で苦難に満ちていて、先が見えない中にあっても、悪をもって悪に報いることをせず、善を行おうとパウロは言います。憎しみを捨て、復讐は神に委ねよと。そんなことが出来るでしょうか?
だからこそ、「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝」なのだというのです。これは、私が頑張ってするのではなくて、キリストが喜んでおられ、キリストの祈りが先立ち、そして、キリストは生きて感謝と賛美にあふれておられる、ということです。この、生きて働いておられる主が、私たちに先立って、私たちのために喜び、祈り、感謝しておられるから、私たちはこの主に倣って喜び、祈り、感謝するのです。悪で報いることや憎しみで自分をいっぱいにして、自分を滅ぼし死んだような生き方をするのではなく、そういうことは主に委ねて、喜び、祈り、感謝して生きなさいと神さまは私たちを招いておられる。なぜなら、悪も憎しみも復讐も、主が十字架で私たちの代わりに負ってくださったのだから。もはや、どんなものも、あなたが喜び、祈り、感謝することを妨げるものは無いのです。
この神が、あなたと共にいて、あなたを立たせ、支えられています。今週も、主にあって喜び、祈り、感謝して過ごしてまいりましょう。