今日の礼拝では証がありました。証とは、クリスチャンが個人の信仰の人生に起こった出来事の中に主イエス・キリストが働かれたと信じる信仰の証言です。今日は、U.Sさんがご自身の人生・信仰生活に起こった、ある試み・試練について話してくださいました。その時、主は聖書を通して「S、S、あなたは今試みにあっている。しかし、わたしはあなたの信仰が無くならないように祈った。だから、立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい。」と語られたそうです。もちろん、すぐに立ち直ったわけではなく数か月が必要だったし、今でも痛みはあるけれど、神さまとの約束だから兄弟たちを力づけるわざに励んでいきます、とおっしゃいました。
説教は「愛されているものとして」コロサイの信徒への手紙3章12~17節から、柴田良行牧師が話されました。
柴田牧師は、先週家族の急病のため帰省されたのですが、突然のことに動揺し、今後のことも不安でいっぱいだったけれど、祈祷会で祈られ、幼稚園の職員礼拝でも祈っていただき、沖縄連盟の会議でも祈っていただいて、不思議と祈ってもらっている安心があったそうです。遠く離れていても、つながっているのだという安心です。そして、それこそが牧会であり、共に喜び、共に悲しみ、祈りあう教会の働きなのだと実感したそうです。
コロサイの信徒への手紙3章12節では、「あなたがた」とまさにこの教会に語り掛けられています。あなたがた教会は、神さまから一方的に清められているし、愛されているし、選ばれているのだから、まずそれを信じ受け入れなさい。それが、キリストの体である教会であり、私たちなのです。
教会は、キリストの愛のきずな、帯で結びあわされているのです。たとえ場所が離れていても、たとえ「死」に分かたれていても、先に召された方とも私たちは結ばれている。そして、首里バプテスト教会の誰かが誰かとつながっていくことで、その帯はどんどん広がっていくのです。だから、わたしに起きた出来事は、単なる個人の事柄ではなくて、わたしたち首里バプテスト教会のことになり、祈りの事柄になり、共に喜び共に泣くべきことになっていくのです。
そのためにも、ただ「主イエスを見つめる」こと。主イエスが愛し、祈り、選び、憐れまれるところに立ち返りなさい。今、わかっているだけのイエスさまを愛し、見つめ、信じて、共に歩んでまいりましょう。