新年最初の主の日を迎えました。
新年ではありますが、1月6日の公現日を前にクリスマス降誕節の光の中での礼拝です。公現日は、伝統的なキリスト教の暦で東方の学者が誕生したイエスを礼拝した日とされます。公にイエスが現わされたことから「公現日」、この日から灰の水曜日までを公現節エピファニーと言います。
今月の賛美歌は「どんなにちいさいことりでも」。こどもさんびかなので、歌ったことがない方も多く、賛美の練習を礼拝前に行ってから始めます。♬良い子になれない私でも、神さまは愛してくださるってイエスさまのお言葉~という歌詞に励まされます。
説教は「言は肉となって」ヨハネによる福音書1章14節から、柴田良行牧師がされました。マタイやルカと違ってヨハネ福音書の誕生物語は言・命・光としてイエス様が描かれます。今日の箇所、「言が肉となって私たちの間に宿られた」は、ヨハネ流の降誕の表現なのです。
言は、ギリシャ語ではロゴス、ヘブライ語ではダ・バールで、言葉という意味以上に出来事という意味を含みます。つまり、神の言は出来事となるのです。ちょうど、創世記冒頭で神が「光あれ」とおっしゃると光ができたように。
さて、ヨハネ福音書成立の背景には、ローマによるエルサレム神殿崩壊があります。ユダヤ教の人々は律法主義に返ることで生き残ろうとしたため、律法ではなくキリスト・イエスによる救いを主張するキリスト者たちは、会堂を追われていきました。そこで、このイエスこそ主であるとヨハネ福音書は宣言するのです。
もう一方で、ローマ・ギリシャ的影響下でグノーシス主義が台頭し、キリスト仮現説(ドケティズム・イエスは霊的存在とする)に教会も影響を受けていきます。そういう中で「言(イエス)は肉(人)となって、わたしたち(人間)の間に宿られた」つまり「イエスは神であり、その神が肉体を持つ人間となった」と宣言することは、大きな意味があります。
私たちの神は、精神や霊だけを愛する神でしょうか。違います。神は肉体を持つ私たち人間を、そのままで愛されているのです。イエス・キリストは、まことの神であると同時に、まことの人となられた。それは、肉体を持つゆえの弱さや痛みや苦しみをも、共に味わい共に悩み、痛み、苦しもうとされる愛なのです。
この神さまが、今日もあなたを愛し、あなたを愛するゆえに、あなたの悩みも苦しみも知って共に担いたいと待っておられます。この神さまと共に、2020年も歩んでまいりましょう。