三連休の真ん中でしたが、たくさんの方と一緒に礼拝することができました。

礼拝の前には、27日の青少年礼拝に向けて、賛美の練習をしていました。なぜか、牧師も一緒に?!

 

説教は、信徒の柴田かおりさん。2か月に一回のお当番です。
「死に向かって新たに生きる」という説教題は、少しドキッとしますが、もはや死に勝利している私たちは、死ぬべき「からだ」の上に、霊による新たな「からだ」を着させていただいているのだから、心配や不安を期待と希望に変えていただくことができる、というメッセージでした。
Ⅱコリント4章~5章のみことばは、本当に奥深いみ言葉だと思います。柴田かおりさんも年齢と共に味わいが変わってきたと言っていましたが、親しい方を亡くしたり、思いがけない苦しみに出会う中で、コリント教会やパウロの思いをより深く感じることができるようになるのかもしれません。

コリント教会が混乱していた一つの原因が、「霊的熱狂主義」といわれる、いわゆる霊肉二元論だそうです。「霊的に完全にされた私たちは、肉的に何をしても構わないのだ」というものです。もしかすると、現代の私たちも霊的なものは肉的なものよりも優れていて、霊的な救いや清さが大事だと考えやすいのかもしれません。Ⅱコリント4章16節を「外なるもの」というのは肉的なもの、「内なるもの」は霊的なものと理解してしまうと、パウロが「霊肉二元論・霊的熱狂主義」を賛成しているとなりますから、ここではそうではない。「外なるもの」は、霊的に救われているにもかかわらず、いまだ罪の中で死の恐怖から逃れられずにいるわたし、であり、「内なるもの」は、そういう私でありながら主の憐れみによって日々新しく生きるものとさせていただき、死ぬべきものでありながらその日まで神によって造り替えられ続けるわたしなのです。すごいことです。私たちは、日々衰えていくわが身でありつつ、日々新しい私を創られ続けている。神様の新創造の中で生かされている! そのために、私たちは教会にされている。神様の新創造は聖霊によって起こされるからです。聖霊は教会に与えられるから、教会の一人として生きるということが神様の新創造に生きるということなのです。教会の人の交わりは、そういう、将来への希望に満ちた、祈り祈られる関わり、つながり、いのちなのです。