今日は、特別な礼拝になりました。德本弘子さんが、礼拝が始まる直前に、神様の元に帰って行かれたからです。先週の月曜日に危篤になられて、それでも生きる力の限りで最後の時をご家族と過ごしていかれました。主の日の朝に召されたのは、まるで最後に首里バプテスト教会の礼拝を一緒にしてから、神様の元に帰っていきますというような、弘子さんらしい計画だったのかなと思います。
礼拝説教は、「すでに勝っている」と題して黙示録12章から柴田良行牧師がされました。
黙示とは掲示のことで、1節に「イエス・キリストの黙示」とあるのは、つまりイエス・キリストの啓示のことであり、ヨハネが教会を励ますために書き、礼拝の中で読まれた手紙なのです。黙示録というとなぜか恐怖に思ってしまうのは誤解なのですね。
黙示録が書かれた時代は、ローマ皇帝のドミティアヌスの治世、キリスト教はひどい迫害の中、多くのクリスチャンが拷問にあっていのちを落としました。クリスチャンであることは命がけでした。そんな教会へヨハネは信仰から離れることがないように励ましの手紙を送ったのです。
最初に出てくる竜は、ローマ権力やドミティアヌスに代表される悪的な勢力、悪魔やサタンを意味します。竜が立ちはだかる中で男の子は守られます。つまりイエス・キリストは悪に勝利されたのです。
ミカエルと竜の戦いとは、イエス・キリストと悪の戦いであり、そこでもイエスさまは勝利され、竜は地上に落とされます。竜は男の子を出産した女を追いかけます。この泣き叫び、逃げるしかない、何もできない無力な女とは、時の権力の前になすすべのない教会を象徴します。しかし、教会は守られるのです。逃げ場所を用意され、3.5年の間、つまりローマの支配が続くかぎり守られます。また、大地も女を守り、女はわしの翼を与えられます。つまり、教会は決して屈することなく、神様によって守られるということが暗示されているのです。竜は地上で女を脅かし続けています。しかし、神様の守りと約束された勝利を信じなさいと、黙示録は告げているのです。
竜は、今現在も地上で教会を迫害し続けています。竜は、惑わすものとして、つまり、見た目には竜のようには見えない形で私たち教会を脅かします。そして、竜は教会が互いに生きあうこと、共に生きることを壊して、クリスチャンを分断し、自分さえよければという自らを神とする誘惑に誘います。では、教会はこの竜とどう戦えばよいのでしょうか。それは、あの女のように「自らを助けられなくてはならない存在であることを認めること」です。そして、あの女のように、悩みと苦しみの中に立ち続けるのです。そして、神に向かって泣き叫び、神に向かって助けを求めること、それが教会の生きる道なのです。