今週も盛りだくさんの礼拝でした。
S.Kさんは、ご両親の介護のため沖縄に戻ってこられ首里バプテスト教会に通うようになられました。祈祷会も主日礼拝も熱心に通ってこられていましたが、その背景にあった思いを信仰告白の中で分かち合ってくださいました。
私たちバプテスト教会は各個教会が自主独立の教会運営を尊重していますので、クリスチャンであっても入会時には信仰告白をみんなの前でしていただきます。文字に書いた教憲教規などを持たないバプテスト教会なので、互いの信仰を確認しあう大切な時です。転入される方だけでなく、迎える教会員も自らの信仰を確認して、これから共に首里バプテスト教会を立て上げていく決意を新たにしました。
そんな転入会を受けて、柴田良行牧師は説教を始められました。「さあ、ここから」という説教題です。
キリストの平和は、「世が与えるようにではない」平和です。エレミヤ6:14にあるように平和がないのに「平和・平和」というような、一時的で自分さえよければというような自己中心の平安・平和ではないのです。
イエスさまがおっしゃるキリストの平和は、私たちの心が平安になったり、争いごとやいさかいがないことなのではない、むしろ不安を抱え持つ私たちを丸ごと包み込む平和なのです。まさにキリストの平和は、嵐の中の平和です。逆に言えば、嵐の中でしかキリストの平和は見つけることができないといえるかもしれません。なぜなら、キリストに従って生きる時、私たちは嵐を避けることができないからです。キリスト・イエスご自身が、嵐の中で悩み苦しむ「小さくされた人々」をほおっておけず、自ら嵐に飛び込んでいくお方だからです。クリスチャンは、自分だけが(もしくは自分と自分の愛する人々が)嵐を避けて平安に過ごせればよい、などとは考えることができません。時にはまだ出会ってもいない人々のためにさえ、共に悩み苦しみ労するのです。そして、その嵐のただなかで、「恐れることはない、私だ」というイエス・キリストの声を聴き、嵐の中で平和を見つける、それを恵みと受け取るのです。
こんな風に言うと、クリスチャンは究極のおひとよし、愚か者かもしれません。まさにその通り。なぜなら、イエスというお方がそうやって生きた方であり、今も私たちに先立って、そうやって生きている方だからなのです。