2月も終わりに近づいて、春の訪れを感じる朝。主の復活を想起し記念する主の日を迎えました。
「生きるはキリスト」というタイトルで、フィリピの信徒への手紙3章1~11節の箇所からのメッセージは、私たちがキリストと共に死ぬときに、私たちの内にキリストが生き始める、という新し命のお話でした。キリスト教は十字架を大切にしていますが、これはそもそも死刑執行の道具でした。けれども、この忌まわしい十字架にイエス・キリストがはりつけにされた時に、同時に私たちの罪や悪も一緒にはりつけにされ、死んだのです。だからこそ、そのイエス・キリストと共に、罪や死から解放された新しい命を生きるものとなったのです。にもかかわらず、私たちはどうしても自分の力で生きようとしてしまう。私はそこそこ良い人間だと思ってしまう。理不尽な苦しみにあって文句を言ったヨブのように。そういう私たちは「死に切れていない」のだ、死に切れていないからキリストと共に生きる命の余地がないのだと、そういうお話でした。「罪びとの私を憐れんでください」と胸を打って嘆き祈る徴税人のような謙虚さを持ちたいと思わされました。「キリスト者とは何にもないものになること」右の手は主へと伸ばしつつ、左の手はまだ何かをつかもうとしている貪欲な自分を顧みるときでした。
今日は、「ホームページを見て来ました」という方がおられて、嬉しかったです。その方が求めておられる主と出会えますようにと祈りつつ、また来てくださることを願っています。
昨日結婚されたお二人も来てくださって、幸せを分けていただきました。