「証し」とは、自分の人生に起こった出来事を、信仰という視点で見直した時に見えてくるイエス・キリストの働きかけを、言葉にしてあらわしたものです。クリスチャンであってもなくても、神さまからの働きかけ、聖霊の働きは起こっています。それに気づいて、信仰の言葉で語りなおすのがクリスチャンの証しです。ですから、それは良いことばかりではありません。なぜなら、神さまの働きかけに気づくときというのは、えてして、挫折や失敗の中であることが多いからです。
今日の礼拝では、そんな証しがM.Kさんからありました。看護学生として寮生活をする中で、ホームシックや学びと生活の苦労でつらい時に、助けてもらったのは沖縄から届いた手紙の中の聖書の言葉だったそうです。
この4月から県外に進学する若者も出席する中で、一人の人の人生の証しが他の人にシンクロして証しを起こすことがあります。牧師の説教も、M.Kさんの証しを受けて語られ、それに応答するように礼拝後に証しが起こされていった礼拝となりました。聖書の言葉は、生きている、と思わされた礼拝でした。
さて、説教は「挫折の中にも」マタイ26章69~75節。ペトロのつまずきの箇所です。26章31節には、イエスさまがペトロのつまずきを予告しますが、その時ペトロは「わたしは決してつまずきません」と言ってのけます。けれども、いざイエスさまが逮捕されると、ペトロはやっぱり見捨てて逃げ出します。そして、裁判の中で、あのイエスさまが沈黙の中で侮辱され続けている姿を見て混乱していきます。それでもペトロは、イエスさまの近くに踏みとどまりました。
ペトロはガリラヤの漁師でしたから、彼の風貌や言葉遣いはガリラヤ出身の田舎者という雰囲気だったのでしょう。ペトロの周りの人々が、口々に「あなたもイエスの仲間だ」と言い始めます。ペトロは自分の本当の姿をあらわにされていくことに恐れを抱いたのか、人々の言葉を否定します。そして、あろうことか呪いの言葉まで口にして「イエスなど知らない」と言いました。その時に、鶏が鳴くのです。
ペトロは、やっとイエスさまの言葉を思い出します。それは、躓く自分のことを知りつつ、決して見捨てない、むしろ愛してくださるイエスさまでした。ペトロは、どれだけイエスさまが自分を愛しておられたかを痛切に思い出して、激しく泣きます。
聖書の言葉とは、聖書に書いてある文字のことではありません。聖書が語る「言葉」は、イエス・キリストご自身の事であり、今も生きて働いて、あなたに語りかけている「言葉」です。この言葉が、ペトロに大切なことを思い出させ、知らせたように、私たちにも、今日も語られ続けています。私たちは、聖書を自分で理解しようと努力します。でも、聖書を教えるのは聖書自身、聖霊の働きです。神さまご自身が、あなたに働いて、聖書を教え、神さまがどんなに弱く躓くあなたであっても愛して、愛しぬいておられるかを示されます。そうして、ペトロが新しくされたように、私たちも新しい命を生きる者とされるのです。強いものになるのではない、弱いままで新しい命を生きる、生きていいのだと、今日も聖書は語ります。