聖書 マルコによる福音書15章47節~16章4節
1、主イエスを見つめる女性たち
3人の女性の弟子たちは、十字架上のイエスを見守り(15:40)、墓に葬られるまでの一部始終を目撃しました。47節「イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。」突然の別れ、無念の思い、悲しみ。しかし、弟子としてイエスの働きを支えてきた彼女たちは、安息日が終わったらせめて香料を塗って差し上げたいと、墓の場所を確認するために見てもいました。そして、安息日が終わるのを待ち、まだあたりが薄暗いころに出かけて行ったのでしょう。(16:2)
2、だれが石をどけてくれるだろうか。
彼女たちは、墓へ向かう途中「だれが石をどけてくれるか」と互いにつぶやきあっていました。弟子としてイエスの身の回りのことを取り仕切っていた彼女たちなら、中に入るための具体的な対策を考えられたでしょう。いつもの彼女たちらしくない態度ですが、まさにそれが、この時の彼女たちの状況でした。 私たちもまた、思いがけない出来事に出会うと、まるで闇の中を手探りで進むような経験をするのではないでしょうか。
今がまさにそうでしょう。新しい未知のウイルスによって私たちの生活が脅かされ、聞こえてくる様々な情報や事柄に翻弄されて、まるで地に足がついていないかのような日々を送っているのではないでしょうか。
3、目を上げてみると、
そのような私たちを、神は決して見捨てない。むしろ、そのような私たちだからこそ、神は名を呼び、招いてくださいます。「目を上げてみると、石はすでにわきへ転がしてあった」と聖書は告げます。この目を上げるという言葉は、見上げるという意味だけでなく、視力を回復するという意味もあります。バルトロマイが視力を回復した時も同じ言葉が使われています(10:52)。彼女たちが目を上げたとき、今まで閉ざされていた視界が開き、見えたものがあったのです。神さまは、暗闇に閉ざされた中で、見えていないのに見えていると言い張る私たちに、目を上げて見ることを教えてくださり、そうしてくださるのです。彼女たちが見たもの、突き止めたものとは、なんだったでしょうか。それは、転がされた石であり、空の墓であり、すでにここにはおられない復活の主でした。
4、ガリラヤで会える
若者を通して彼女たちは告げられます。「あなた方は、死んだ方を探し求めているけれど、見なさい!ここは空っぽだ。」「あなた方が探し求めるべきなのは、生きて働いておられる方、復活のイエスであり、その方はガリラヤで会える。」暗闇に光が差し込んだ瞬間です。復活は、死からいのちへと方向を変えられる、つまり悔い改めの出来事であり、新しいいのち(永遠のいのち)の出来事なのです。
この復活の出来事を主の日ごとに繰り返す、それが礼拝です。礼拝は、「だれがこの石をどけてくれるだろうか」とつぶやく現実から目を上げて、視力を回復していただくことです。私たちは礼拝で、現実の様々な課題、悩み、苦しみが、あの重い石のようにどかされ、死んだ方ではなく生きて働かれる主と共に生きる希望を見せていただくことが出来るのです。そしてまた、私たちは礼拝から、主が先に行っておられる場所、ガリラヤという私たちの現実へと向かう力をいただくことが出来ます。それは復活によって私たちすべての人に与えられた「新しいいのちの力」です。
5、共に集まって礼拝するということ
だから、私たちは毎週の初めの日を復活の「主の日」と呼び、神さまによって誰一人欠けることなく招かれ、共に集い礼拝をしているのです。 先週から、私たち首里バプテスト教会は、共に集まることが出来なくなりました。キリストの身体である教会にとって、それがどれほど危機的な事かと思います。私たちは身体を持つからこそ礼拝に共にあつまり、共に復活のいのちに与る必要があるのです。しかし、体を持っているからウイルスに感染するリスクがある。そんな引き裂かれた状況の中で、私たちは、ただ漫然と「専門家」や「行政」の指導に従って、礼拝をあきらめたのではありません。この決断に至るまでには、教会員一人ひとりが祈り、役員一人ひとりが悩み、今できる最善を求め、話し合い、祈って得られた今の在り方です。そして、この決断を私たちと共に生き働かれる復活の主イエスが、良しとしてくださると信じます。 首里バプテスト教会に連なる方々の誰一人欠けることなく、今日、主によってこの礼拝に招かれ、場所は違っていても心を合わせ、復活の主のいのちに与ることが出来る幸いに感謝します。けれども同時に、またいつの日か、共に集い、何の躊躇もなく握手で挨拶し、共に礼拝することが出来ることを信じ、願い、祈ります。