6月最後の主の日の礼拝を守りました。
この日は、M.Eさんの証しをみんなで伺いました。賛美♪み手の中で♪から始められ、キリスト教に出会いクリスチャンとなってから、家族との関わりの中で主とあらためて出会いなおされた経験を話され、振り返って「すべてはみ手の中です」と語られました。
説教は、「目覚めていても、眠っていても」と題し、テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 4章13節~5章11節から、柴田良行牧師が話されました。
私たちは、天に召された方の方が神さまの御許にいるのだから愛に包まれている量が多いと感じてしまうけれど、実は、天に召されている方と同じように、今生きている私たちも、主の愛に包まれ愛され守られているのです、という言葉にはっとさせられました。
テサロニケの教会の人々は、激しい迫害の中でも、キリストの再臨がすぐに来ることを希望にしていましたが、次々に召されていく仲間たちが主の再臨に与れないのではという不安があったようです。しかしパウロは、召された人々も同じように復活が与えられ、生きている人も死んだ人も同じように主が取り扱われるのだ、なぜなら、死んだ人も主と共に生きているのだからと語ります。その証が、インマヌエルの主イエス・キリストです。
インマヌエルとは、共にいてくださる主という意味です。キリスト教の神さまは、私たち人間がどんな時でも、どんな状態でも、人間の都合や感情やプライドで神さまを遠ざけていても、なお、その人と共にいると決められたし、その約束を守ってくださるのです。まさに「不思議」という名の通りのお方です。
柴田牧師がかつて、高齢となり記憶が薄れつつある方から、「最近物忘れがひどいのです。聖書を読んでもすぐに忘れてしまって。神さまを忘れてしまったらどうしましょう。」と問われ、イザヤ書49章15~16節を開いて、「私たちが忘れたとしても、神さまは忘れませんから大丈夫。忘れてしまってもいいんです。」と答えられたそうです。その方は安心してくださいましたが、しばらくすると柴田牧師のこともわからなくなっていかれました。けれども、主の安心の中で残りの命を生きていかれました。この方と命の最後まで、そして今も共に生きてくださる主を信じ、この愛に生きる時に、私たちは、この方と同じように安心して、どんな人とも隣人として共に生きることが出来るのでしょう。
次週から7月になります。教会の礼拝、祈祷会以外の集会や委員会も再開する予定です。やることが多くなって、心を騒がせてしまっても、神さまが忘れないでいてくださることを信じて、主の愛に生きていきたいと願います。