CSこどもキャンプ終了直後の主日礼拝は、キャンプで奉仕したM.Hさんの奏楽と柴田かおりさんの説教でした。柴田牧師は親子礼拝のお話担当で、やっぱりキャンプの話を山盛りしていました。

主日礼拝の説教は、出エジプト記1:22~2:10より「水の中から」というお話でした。出エジプトとは、エジプトで奴隷となったイスラエルの民がモーセの指導でエジプトを脱出していくお話です。それはイスラエルの解放・救済のお話なのですが、イエス・キリストによる人類救済の物語を導いていくお話でもあります。モーセ誕生にかかわったのも、イエス誕生にかかわったのも、女性たち。時の権力者によって命を狙われているにも関わらず、女性たちによって守られ生きて神の救済のわざに用いられていくモーセそしてイエス。

今日の説教では、モーセのいのちを守っていった女性たちに注目して、「もっとも小さきもの」の一人と共に生きるとは、どういうことなのかを考えました。モーセを生んだ女性も、出産を助けた助産婦たちも、モーセの異母兄弟である姉ミリアムも、ファラオの娘である王女や侍女たちも、神を畏れ、神が慈しみ愛すいのちへの畏れ、そのいのちを人が殺すことへの恐れの中で、それ以外のもの(権力者・男たち)に対する不服従・非暴力抵抗に生きることへと導かれていったのです。ファラオが「男児はナイル川へ投げ込め、女児は生かしておけ」と、女性たちを貶め、蔑み、軽んじる中で、女たちがしたたかに抵抗して生きる姿から、「もっとも小さきもの」と共に生きることとはどういうことか、教えられます。

さらに、女性たちは目の前のいのち「モーセ」を、たった一人のいのちを救ったのであり、しかもそれを多くの女性たちの手によって救ったというのは考えさせられます。私たちは、「もっとも小さきもの」というときに、具体的な誰かを想像するのではなく対象化しただれか、子どもたち、女性たち、「障碍者」などなど、大義名分にしてしまって、結局は私一人では難しいと考えてしまいやすいものです。モーセを守った女性たちは「ヘブライ人の男の子」全部を救おうとしたのではない。目の前にいるこの子モーセを救った、しかも、一人でではなく何人もの助けてとともに。私たちも、自分には無理と思うのではなく、目の前の一人と神さまからの大切な一人として出会い、愛し、慈しむところから始められるのではないかと思うのです。

水の中で死んでいった多くの男児たちの中から、たった一人モーセが生きたことを、神は用いられ、人類救済の物語を始めていかれました。そのために、女性たちの小さな行動が生かされ用いられていったことに、希望を見出していきたいと思います。

  

礼拝後の握手タイムはウクレレで