イザヤ40:27~31「何度でも何度でも」 2020年8月2日

県の緊急宣言が出され、会堂での礼拝は休止となりました。実に、長期戦になりそうです。みなさん、くれぐれもできるだけの対策をとられて、ご自身と周りの方々を大切にされてください。
幼稚園は、ちょうど先週の金曜日で一学期が終了となりました。一学期最期の日に幼稚園の礼拝の中で、「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。」と、7月のみ言葉に聴きました。

トーヴ!神様の感動
 よかった。というのは、トーヴというヘブライ語です。すてきな言葉です。善い、すばらしい、恵み深い、慈しみ、大満足、それを一言に集約するなら、感動そのものを表しているのです。神は、光をみて良しとされた。ってありますが、単に許可しているのではない。感動しているのですね。そして、創造された一つ、一つに感動しつつ良いって宣言されている。そして、最後に、すべてをご覧になって、極めてトーヴっておっしゃったのです。 すべての被造物に対して、もちろん私に対して、あの人にも、この人にも、極めてトーヴって。

今、コロナ関連の報道は連日ですね。もちろん、大事なことです。互いの命をまもるためにね。でもそれがいきすぎて、あまりにもナーヴァスになり、事件になっていることも聞きます。さらに病気のことだけでなく、今の生活のことも、将来の生活のことも、重なってくるわけですから、確かに重たい課題です。
ただ、このように、あまりにも殺伐としたニュースや課題があふれてくる中で、神さまが伝えようとしている切なる思いが聴こえなくなってしまいやすいものです。こうなると、神さまが感動しつつ、あなたのことを極めてよいって、言っておられるのに、それが聴こえなくなるのですね。

わたしはとってもいい。あなたもとってもいい。」
 幼稚園の礼拝で、「わたしはとってもいい。あなたもとってもいい。」それを繰り返しました。神さまが、感動しながらとってもいいと言ってくださることをしっかり刻んでほしいなと。こどもたちは、うれしそうにそうやってくれたのですが、逆に大人の方が、それができないのかもしれません。はずかしさもあるかもしれません。
でも、あなたもわたしも神様の作品です。わたしはわたしのものではないですね。神様のものでしょう。よく、ああ、自分はだめだ、おれはだめだ、その時思い出してください。神様のかけがえのない作品に、ケチをつけているということでしょう。

あなたは神様の大切な作品なんですよね。だから、こどもたちに、この夏休みも、自分のことを大切にするんだよ、そして、周りのみんなのことも大切にできたらいいねって。

カメラの向こうのみなさん、やってみましょう。こどもたちは本当にうれしそうでした。自分を抱きしめて、わたしはとってもいい!もし、横にだれかがいたら、いなかったら、私にむかってください。「あなたはとってもいいよ!」ってやってみましょう。

これ、神さまが何としてでも伝えたい思いなのです。でも、それを自分でかき消した入り、周りの評価でかき消してゆきます。

神さまとの交わりは至福の時、最高の時
 イエス様がバプテスマを受けて、最初に神様から受けた言葉が「あなたはわたしの愛する子」だったでしょう。イエス様は本当に祈られました。義務だから祈ったのでしょうか。違いますよね。神さまとの交わりが最高の時間だったからです。

祈るつど、父なる神から「あなたは私の愛する子」って繰り返し、繰り返し、いただき続けたのです。そのうえで、神が愛する他者のことが示されてくる、あの人のこと、この人のことが示されてくる。

先週も言いましたね、マザーテレサが朝早くに起きて祈ると、それは修行のようなものではなくって、最高の時間だからですよね。神がどれほどマザーのことを愛しておられるか、それを聞き、喜びと祈りと感謝を神様からプレゼントしてもらう。

そのプレゼントしてもらった、喜び、祈り、感謝を神様にそのまま表してゆく。一日の始めに、そんな至福の時をすごして、それから、死にゆく人々のための大切な働きにむかってゆくのです。この至福の祈りの時間がなければ、この働きは決してできないって、言ってますよね。

特に、このコロナの身体も心も不安にさせる要因が漂っているこの状況だからこそ、落ち着いて、神さまとの交わりをいただきたいものです。

祈りは、言葉を出せばいいというものではありません。愛の塊である、神さまへの黙想からでしょう。例えば、「あなたは極めて良い」それを思い起こすことからです。マザーは、神さまの前へでの沈黙から祈りが始まると言っています。

人(自分)の言葉ではなく、神の言葉!
 長い間、バビロンに連行され、もう希望も見失い、神さまのことも思いめぐらすこともなくなってしまったイスラエルの民でした。けれども、神は約束どおり、時が来たよ、あなたがたは、長い間待ち望んでいた故郷エルサレムに変えれるんだよって、イザヤを通して語りかけているのです。

でも、もう、繰り返される苦難の中で、もう神に呼びかけもしていない、むしろ、もう俺たちの道は閉ざされてしまったよ、どうでもいいよ、私が訴えたことは、もう、神さまに忘れられてるよ!

そうやって、自分で、自分自身に語りかけ、断言しつづけている。イザヤが、いくら、道が開かれたよ、訴えがかなう日が来たよと言ってもかみ合わないのです。

ただ、ただ、周りと自分の思いに翻弄されている。

だから、イスラエルの民は神の言葉を聞かなければならないのです。私の言葉ではなくって、神さまの言葉が必要なのです。神はイザヤを通して語ります。

「あなたは知らないのか!聞いたことはないのか!」

主はとこしえにいます神だよ、おいおい、目をさませ、お前自身のつぶやきや不満という心の声で一杯ではないか。

「主はとこしえにいます神」これは、厳密にいうと「何時も生きて働く、神」です。神様は、この生きることの難しい時代であっても、地の果てであっても、生きて働いておられる、というのです。神様は、どんな時でも、どんなところでも働いておられる、と神さま自身がイザヤを通して訴えているのですね。

「主はとこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主、倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。」

西南学院大学の学長バークレー先生から、み言葉の黙想、メディテーションを教えてもらいました。説教作成はもちろん、毎日時間を取るのです。宝物のような時間です。心静かにして、深呼吸して、そのみ言葉だけを思いめぐらすのです。ああ洗濯物がとか、夕飯がとか、そういうのはおいて、ただ、そのみ言葉をイメージする。考え込むのではないですよ。ただ、心静かに、おだやかに思いめぐらすのです。どんなに忙しくても、そんなそれこそ至福の時間、最高の時間を持ちなさいと、教えてもらいました。

何度でも何度でも
 私たちのことを大満足って言ってくださる。この困難な今も、そして、この首里の地でも生きて働いておられる、愚痴や不平でいっぱいになってしまいやすい私たちに、何度も、何度も呼びかけ続けてくださる。この聖書箇所を読みながら、

ドリカムの歌に「何度でも」という曲を思い出しました。何度でも何度でも何度でも立ちあがり呼ぶよ、君の名前声がかれるまで~♪

これは、聖書では神様の姿そのものだなって。私たちきづかないんだけれど、神さまがこうやって呼んでくださっているんです。何度失敗しようが、何度疲れ果てようが、何度つまずこうが、何度でも何度でも、神さまが呼んでくださるから、 ああ、ってため息ついているそこから、挫折したその場所から、そこから始められるんです。

この礼拝の形も、またかって思うところもあるでしょう。何度繰り返すんだろうって、でも、神さまの英知は究めがたい、私たちがため息つくなら、そのため息つく回数以上に、何度でも何度でも、お前を愛しているよ、さあ、顔をあげてごらん、そうやって、何度でも何度でも新しい力を、私たちに授けてくださるのです。だから、安心していいのです。

おそらくきっと、また、疲れ、倦み、つまずくこともあるでしょう。
でも、それでいいのです。
それ以上に、神が呼びかけ、力を与え、ああ、ここから、この疲れたこの場所からスタートしていいんだなっていう思いをあたえてくださるからです。

何度でも何度でも「ため息ついた、その場所から、さあ、ここからだよって、」神はあなたに語りかけてくださっています。