本日の全体会は教育部主催による模擬分級を予定しています。共にみ言葉を分かち合う時に、自分一人では気づかなかった恵みに触れることが多々あるでしょう。実際聖書は「あなたがた」へと、共同体に向けて語られているものです。「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる。」(マタイによる福音書18章20節)と、主イエスが言われている通りです。交わりの中で、他者をとしてキリストがあなたに語りかけてくださるのです。そのことをバプテストの先達たちは大事にし続けてきました。
『聖書教育』誌10月号の巻頭言に、加藤誠氏(日本バプテスト連盟大井バプテスト教会牧師)が、バプテストとは「信徒一人ひとりが聖書を読み、語り合いながら、真のキリスト教会のあり方を追求した群れ」であると書いておられます。みなさんもぜひ目を通してみてください。私たち首里バプテスト教会もまた語り合い、分かち合いながら歩んでゆきましょう。(柴田良行牧師)2023年9月24日週報
(参考 『聖書教育』10月号巻頭言より)
「バプテスト」になり続ける 加藤誠(大井バプテスト教会)
「バプテスト教会って、どんな教会ですか?」と問われたら、皆さんはどのように答えますか?「浸礼を大切にしている教会です」「一人ひとりの信仰の自由を大切にしています」「牧師も信徒の一人です」「総会を一番大切にする教会です」などなど、いろいろな応答が可能でしょう。
今から約四百年前、英国に誕生したバプテストのグループに注目するとき、そこに見えてくるのは「信徒一人ひとりが聖書を読み、語り合いながら、真のキリスト教会のあり方を追求した群れ」です。たとえばマルチン・ルターという偉大な神学者の聖書理解、教会観のもとに成立したルター派の教会と異なり、神学校を出ていない信徒たちが聖霊の導きを求めて聖書を読み合う中にバプテストの教会は生まれていきました。神学校を卒業して英国国教会に認定された牧師が語る「教会とは/クリスチャンとは・・・こうあるべし」という教えに対して、信徒たちが「でも、聖書はなんといっているだろう?」と祈りながら聖書を読み、聖書的な教会のあり方を大胆に求めていったのです。そのために英国国教会から見ると「自分勝手な教えに扇動された無秩序な群れ」に映る部分もあったようですが、バプテストの人たちも「一人だけ/一つの教会だけ」では「独善的な聖書理解に陥る危険」を覚えて、アソシエーション(連合)という協力体を形づくり、信仰的に重要な課題については皆で協議し、協力し合うことを大切にしたのでした。しかも、その協力体は教会員数が多く財政規模の大きな教会が主導することなく、各教会から2名ずつの代表を派遣して、どの教会も平等の立場で責任を負う交わりであった点に特徴があります。
このような最初期のバプテストのグループのありように学ぶとき、私たちが日々「バプテストになり続ける」ことの大切さを示されます。「日本バプテスト連盟」に加盟し、看板に「バプテスト」という文字が書かれていたら、自動的にバプテスト教会だというわけではないのです。「うちの教会は昔からこうしてきたから」「牧師先生がこうしなさいと言われたから」という言葉のもとで一人ひとりが聖書から聴くことをやめてしまい、ただ受け身になってしまう時、その交わりは「バプテスト教会」の活き活きとした命を失ってしまうのではないでしょうか。
信徒一人ひとりが日々祈りつつ聖書を開き、イエス・キリストを告白する信仰をいただいていく。今、私たちが生かされているこの世界におけるキリスト教会のあり方、クリスチャンとしての生き方を聖書に聴いて、お互いに語り合う。「自分一人だけ/自分たちだの教会だけ」で立つことの危うさを自覚して、み言葉や励ましや慰めを届けあう交わりを大切にしていく。その意味で、教会学校の各クラスが日々「バプテストになり続ける」大切な祈りを共有する交わりとなることを祈っていきたいと思います。