ヨハネによる福音書15章11~17節から「わたしがあなたがたを」という説教でした。

この15章は、13章で弟子たちの足を自ら洗われた主イエスさまが、十字架を前に死を覚悟して語られた「惜別説教」ともいわれています。

当時ユダヤ教ではぶどうの木は選ばれた民ユダヤ民族であり、このユダヤ民族だけが神とつながっている救われる民であると理解されていました。イエスさまの「私はぶどうの木」という言葉は、とても挑戦的だったといえます。真のぶどうの木は私であり、私を送られた神につながることなのだと。

私たちは、たとえ主イエスにつながる枝として生きることを認識していても、ついつい「もっと大きな、立派な実を結びたい」と頑張るものです。けれども、この箇所でイエスさまが言っておられるのは、そうではなくて、ただつながることです。しかも、私たちが頑張ってつながるのではなく、イエスさまがつながっていてくださる。たとえ、私が手を放しても、イエスさまは離さない。そして、信仰・希望・愛を受け取ってほしいと願っておられます。

イエスさまの喜びは、みこころがなることです。それはつまり、互いに愛し合うこと。13節の「友のために命を捨てる」ことは、イエスさまにだけできることであり、イエスさまは私たちをしもべではなく「友」と呼んでくださり、いのちを捨ててくださったのです。

この惜別説教からほどなく、弟子たちは、ユダだけでなく一人残らずイエスを捨てて逃げ去りました。しかし、イエスさまはそんな弟子たちでさえも「友」と呼んでくださったのです。そのイエスさまが、私の手をつかんで離さない。そして、豊かな信仰と希望と愛を、与え続けてくださっています。さあ、その手を握り返して、共に豊かな実りに期待して歩んでいきましょう。