先週、首里バプテスト教会の草創期からかかわっておられた方が、主のもとに召されました。
今日は、その方に思いを寄せつつ、その方も私たちも同じように、同じ主に覚えられている人生であることを思う礼拝となりました。
クリスチャンとは「(神さまの事を)なんとかしてとらえようと努めている」人の事であり、人生とは旅であると。
召された方も、私たちも、生きている限り、神さまとはだれなのか、その神に愛されている私とは誰なのか、探し求める旅路を生きるのかもしれません。
説教で紹介されたボンヘッファーの文章(ボンヘッファー『獄中書簡集』より)
私は何者か? 彼らはよく私に言う。私が自分の獄房から平然と明るく、しっかりとした足どりで、領主がその館から出てくる時のように歩み出ると。
私は何者か? 彼らはよく私に言う。私が自分の看守たちと自由に、親しげに、はっきりとした口調で、あたかも私の方が命令しているように話していると。
(中略)私は本当に、他の人々が言うような者なのか?それとも自分が知っているような者でしかないのか?籠の中の鳥のように動揺し、憧れて病み、誰かに首を絞められた時のように息をしようともがき、色彩や花々や鳥の声を求めて飢え、渇いたように優しい言葉や人間的な温もりを求め、恣意や最も些細な無礼にも怒りに震え、重大な出来事を待ちかねてうろうろし、無限に遠い所にいる友達のことを心配しては気力をなくし、疲れ、祈り・思索し・創造する余力ももはやなく、くたびれ果てて、みんなに別れを告げる用意をする。
私は何者か? 後者か、それとも前者か? 私は今日は後者で、明日は前者なのか? 同時にその両方なのか?
人前では偽善者、そして自分の前では軽蔑すべきメソメソした弱虫なのか? それとも、私の中になおあるものは、すでに手中にした勝利から算を乱して退却する意気阻喪した軍隊と同じなのか?
私は何者か? ただ一人でこう問う時、その問いは私をあざける。 私が何者であれ、ああ神よ、あなたは私を知り給う。私はあなたのものだ。