子どもたちも大人も一緒に、山中臨在先生をお迎えして、嬉しい礼拝でした。こどもさんびかも歌いました。
説教は、「神の国の聖歌隊」と題して山中臨在先生が話されました。
山中臨在師は、大学生時代から17年間役者として過ごした時に、「幸せのせいくらべ」というお芝居で黒柳徹子さんと共演したことがあるそうです。その時に、お母様がクリスチャンであった黒柳さんが聖書の特に愛について、そして天国について訊ねられ、山中師も天国(神の国)とはどういうことだろうかと考えられたそうです。
今日の聖書個所コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章12~27節は、神の国の聖歌隊とはどういうものかを考えるのにふさわしい箇所として、4つのことを話されました。
①神の国の聖歌隊は多様性を喜ぶ。
山中師は、神学校で指揮法を専攻されたそうですが、卒業リサイタルで25名の聖歌隊を指揮することになりました。そのメンバーは、違った国籍・年代・言語の方がおり、また歌う曲も様々なジャンル・言語・時代の歌で、これこそ神の国の聖歌隊だと思われたそうです。神さまは、私たちが多様であることを喜ぶ方です。
②神の国の聖歌隊は一人ひとり・全員を必要としている。
指揮者は、聖歌隊のメンバー一人がいないと、その一人の声がないことがわかる。よく練習を休む時に「私一人くらいいなくても大丈夫でしょう」と言われるが、そうではない。神さまは、一人がいないことを知っておられ悲しまれるのです。なぜなら、その一人の声を必要としているからなのです。
③神の国の聖歌隊は、その多様な一人ひとりの声のブレンドでできている。
聖歌隊、合唱は、一人ひとりの声のハーモニーでできています。その絶妙なバランスを作っていくのが指揮者の仕事だそうです。ですから、全員がそろった練習が大事ですし、一人ひとり違った声が必要でもあります。歴代誌には、聖歌隊の声とラッパの演奏がまるで一人の声のように賛美したとあります。楽器と声が一人の声となることは物理的に無理ですが、神の国の聖歌隊とはそのようなものなのです。
でも、どうやってそれができるのでしょうか。それは、自分勝手に歌うのではなく、互いの声を聴きあい、息を合わせること。呼吸を合わせることなのです。
④神の国の聖歌隊は、イエス・キリストを頭(かしら)とする。
主を賛美するといいながら、私たちは、どうしても互いに比べたり、自分の評価を気にしたり、神さまではないものを神とする誘惑の中にいます。音楽とはそういう誘惑に満ちています。だからこそ、賛美するときに私たちは誰に向かって、何を賛美するのかから離れないようにしなくてはなりません。