私たちは皆、死に向かって生きています。もしも、その死が絶望だとしたら、死に向かって生きるとはなんと悲しいことでしょうか。けれども、聖書では、私たちが考える肉体の死を終わりとは言っていないのです。むしろ、死をしっかりと見つめ、死に向かって生きることこそが希望なのだと、生きるとは自らの死を覚えることなのだというのです。

現代は、健康ブームで老いや歳を重ねることに逆らう、アンチエイジングなるものがもてはやされています。確かに私たちは、健康でいたい。もちろん、神さまから与えていただいている自分のからだ(肉体・精神・魂)は大切にすべきでしょう。でも、私たちのからだは何のために生かされているのでしょうか。いつまでも若々しく美しくいるため?

聖書は、「白髪は輝く冠」と言います。神さまは、いつでも今のあなたを大切だよと言ってくださるのです。それは、過去にも未来にも支配されないということです。神さまはあなたに、過去にしたこと、しなかったことへの後悔や、これから起こることへの不安から、解放されて生きてほしいと願っているのです。

今日のみ言葉は言います。神さまはあなたをずっと背負ってきてくださった。そして、これからもずっと背負って行かれる、と。

アルフォンス・デーケンという死生学の学者が言っています。「人間は体力が衰えるころに開花する可能性を秘めている」つまり、体力があるうちには気づけない、発揮できない何物かが人間には秘められているということです。老いるとは、一つひとつ神さまにお返ししていくことではあります。私たちは、日々、できなくなっていくことを数えるでしょう。しかし、老いるとは、まだ気づいていない賜物(神さまからのギフト)に気づいて生きることでもあるのです。「神さまの恵みはあなたに十分である」というみ言葉の本当の意味を、老いと共に知ることができる。光の方へ向かっていく、そんな嬉しい希望が、年齢を重ねていく私たちにはあるのです。