聖書:テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 2章13節

1、ことば
 言葉というのは、面白いものですね。人間は、言葉を得たことで思考する者となりました。そして言葉は、単なる伝達手段だけではなく、時に力を持ちます。言葉は、時に人生を変えたりもします。しかし、言葉の力が時に暴力になることもある。言葉で人が傷つけられ、殺されることもある。

皆さんも、言葉の難しさを感じたことがあるのではないかと思います。良かれと思って言ったことが、逆に人を傷つけたり、思うように伝わらなかったり。マスクをかけて表情が見えず、近寄ることも触れることもできない今、言葉だけで思いを伝える難しさに、今までとは違った気を遣うようになりました。

本来、力も言葉も、神さまのものです。神さまが気前よく人間に与えて下さった。でも、人はその使い方が下手なばかりか、あたかも自分の所有物であるかのように考えます。人間はいつでも神になりたがるのです。

2、教会・クリスチャンであっても
聖書もまた言葉である以上、同じリスクがあります。聖書は「神の言葉である」という時、聖書に書かれた言葉を絶対化して、何の吟味もせずに他の言葉に勝る力を持たせる時に、聖書の言葉の力が「暴力」となって人を傷つけ、殺すものとなり得るのです。熱心であればあるほど、自分は正しいと思っていればいるほど、それは巨大な暴力となりえます。

聖書は過去、戦争に悪用されても来ました。日本でも、「友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」というヨハネによる福音書15章13節を引き合いに、戦争中多くの教会・クリスチャンが、若者を戦争に向かわせていきました。
聖書も、人の手を通して語られた人の言葉です。しかしそれは、神の愛に応えた人たちの信仰の言葉であり、その言葉の中に、生きて働いておられる復活のイエス・キリストを発見して受け取ることが、神の言葉として聖書を読むということなのです。

3、聖霊によって
さて、テサロニケの教会の人たちは、パウロ達から福音を聞いて、受け入れたわけですが、そのパウロたちが立ち去った後も、迫害の中で、福音から離れずに希望を持ち続けることが出来たのはどうしてなのでしょうか。
テサロニケの信徒への手紙は、パウロが書いた最初の書簡であり、ということは新約聖書の中で最初に書かれたものです。ということは、テサロニケの教会の人々には律法はあったけれど、聖書は無かったのです。パウロたちの伝えた福音を、人の言葉ではなく神の言葉と信じ、受け入れたことも不思議ですが、パウロたちが去って、もう人の言葉すら語ってくれる人がいなくなった後も、彼らを支えたのは何だったのか。それが、生きて働く神の言葉であり、三位一体の神であり、聖霊ということが出来るでしょう。

ここで少し、働かれる神・聖霊についてお話します。
時に、私たちは感情と聖霊をごっちゃにします。たとえば「聖霊が働いた」というときに「感激した」とか「喜びが心の内から湧いてきた」とか恍惚状態になることを根拠にすることがあります。それもそうかもしれません。でも、聖霊は私たちの感情だけではなく、理性にも働くのです。私たちの理性に働いて、正しい判断をさせるのも、聖霊の働きなのです。
たとえば、聖書の中には冷静に考えると矛盾する箇所がたくさんあります。そういう時、無理やり信じさせるのが聖霊なのではなくて、「ん、おかしいぞ」と思わせるのも聖霊です。聖書に疑問を感じることが無ければ、私たちは神さまを知ることが出来ません。聖霊のはたらきは私たちに疑問を起こさせ、神さまをより深く知ろうとすることへ招くのです。

また、私たちは時に感情(愛情)と理性の間で悩むこともあるでしょう。たとえば、家族か教会か。そんな時に、家族が大事と言えば不信仰で、家族を犠牲にしても教会と言えるのが信仰、と考えてしまいやすいのですが、しかし、聖霊はもっと自由です。私たち人間の暮らしや命は複雑で、AかBかでは決められません。そんな人間を愛する神・聖霊は、人間の命に寄り添って働くのですから、その時々に違った答えをくださるだろうし、時にはAでもBでもない答えが与えられるかもしれない。どちらにしても、その時その人にもっともふさわしい、「良いもの」を与えようとされるのが聖霊の働きなのです。

テサロニケの人々は、パウロたちから直接、福音の言葉を聞いたときに、信じ、受け入れました。それは、母親のように父親のようにテサロニケの人々を親しく思うパウロたちの愛情があってこそ、だったでしょう。しかし、パウロたちが去った今、神の言葉は働き続けるのです。パウロは、その聖霊なる神の言葉の働きを信じ、感謝しています。

そして、その同じ神、三位一体の神、父なる神・子なる神・聖霊なる神が、あなたを取り囲むようにして、それぞれの仕方で働いておられます。この、生きて働かれる神が、あなたを生かそうと、生きた言葉としてあなたの内に働いておられます。この神の働きを信じて、今週一週間も、生かされてまいりましょう。