ルカによる福音書1章46~56節
クリスマスは、「決意」に満ちています。
クリスマスは、神の決意からはじまります。
神は、人を愛し抜かれることを決意され、かつてはご自身が創造されたことを深く後悔されたような愚かで罪深い人間を、にもかかわらず愛し、信じることを決意さました。神は、その愛をご自身が人となるという形で表すこと、言い換えれば、神であり続けることを断念することを決意されました。
神が示されたこの愛、人をとことん信じる決意こそ、神の信実(=ピスティス)です。神が旧約以来イスラエルに示されてきた愛のあふれが、とうとう神に、神であり続けることを断念させ、自ら人となることへと押し出していった。これが神の信実=ピスティスです。
この神の愛、神の信実=ピスティスが、マリアに届いたとき、彼女は大いに畏れます。名もない、若い小娘のマリアにとって、この神の愛は、あまりにも大きなものでした。マリアは、いてもたってもおれずにエリサベトのところに向かいます。そして、マリアよりも先に神の決意を知ったエリサベトとお腹の子に迎えられました。3者の出会いは、化学反応のように恐れを喜びへと変えました。
「私たちの神は、本当に私たちのところに来ることを決意されたのだ」
マリアとエリサベトは、お腹の子どもたちと共に確信し喜びます。
ルカによる福音書1章47~55節は、神の愛、信実=ピスティスがもたらした喜びと応答の賛美です。マリアがエリサベトと共に過ごした3か月で、二人はこの大いなる神の愛にこたえるために、自らを手放し断念していったのです。計画外の妊娠により自分で人生を計画することを断念すること。出産というリスク。皆に祝福される良い妻、良い母を断念することかもしれない。
そして、愛するわが子を神の計画実現のため、いつか手放す過酷でもあります。2人は語り合う中で、神の愛を信じ、神の信実=ピスティスに従う決意をしていった。そしてその決意は、将来への恐れや不安を断念させ、恐れを喜びに変えたのです。神は苦しみさえ喜びに変えてくださる、と信じる。それが神を信じるということです。
二人の母親は、こうして自らの体に宿った小さな命を、命がけで守ることを決意し、命がけで神を信じ、愛しました。その生涯の中で、神のご計画が何なのか、わからなくなることもあったでしょう。けれどそんな時、この最初の決意に戻され、神の愛と信実へと戻されたのではないかと想像します。
神の決意はマリアの決意を促し、そしてイエスの決意へとつながります。
ルカによる福音書4章は、イエスの宣教の始まりを伝えています。イエスが育ったナザレという村は、ローマの度重なる迫害の血なまぐさい犠牲があった場所でした。ローマの武力・暴力による支配は熾烈を極め、ローマに対する報復と憎悪に満ちていたので、ナザレの会堂では、神による報復を祈り、預言する聖書が朗読され、イスラエルの神がいつか救い主によって強大な敵を倒すと信じ、祈り、人々の希望となっていたのです。ところが、イザヤ書を読み始めたイエス様は、「…主の恵みの年を告げるためである。」と朗読して、さっさと席に座ってしまった。会衆の目がイエスに注がれたのは当然です。「さあ、今から神さまの報復を願う言葉が始まるぞ!」というその直前でやめてしまったのですから。その会衆にイエスは、神の愛、信実=ピスティスについて、つまり復讐を断念することを語ります。それは、家族の期待を裏切るだけでなく、誹謗中傷や危険にさらすことです。しかし、イエスはそれを承知で神の愛、信実ピスティスに応える決意をされたのです。
神の決意がマリヤ・エリサベトへとつながり、イエスの決意とつながって、教会は、この決意と断念の流れの中にあります。
このマリアの賛歌は、「力の弱いものを高め、強いものを低くする」と歌いながら決して「報復」を呼びかけない福音が歌われているといいます。伝統的なヘブライ詩のルールを破り、本来「神の裁き」がくる個所で「神の憐れみ」を歌っているのです。しかしそれは、弱者が強者を打ち負かし勝利するのではなく、暴力、抑圧、支配のない新しい「神の憐れみによる」世界の到来、まことの解放と平和の到来が、歌われているのです。
教会は、激しい迫害の中でも、イエス・キリストの福音を、神がすべての人を愛し信じ抜いてくださるという、神の愛、信実=ピスティスに応えて生きた。非暴力を貫き、戦争と迫害を生き延びました。その中で、このマリアの賛美は紡がれていった。報復を断念し愛に生きる決意を、マリアの賛美に込めていったキリスト者たち、教会の決意がここにあり、わたしたちにつながれているのです。
クリスマスは、この神の愛の決意を受ける時です。
あなたの腕の中に、生まれたての、小さくて柔らかい赤ん坊として神は愛を託そうとしています。あなたをこの上なく信じ愛し、神の愛のしるしの赤ん坊を託す。あなたが、しっかりと抱きとめ、愛し、成長させてくれると神は信じています。
あなたが赤ん坊を抱くためには、今つかんでいるものを離して、両手を差し出さなくてはならない。赤ん坊は、とても世話が焼ける子かもしれない。あるいは、思うように成長しないかもしれない。あなたはこの赤ん坊を抱くために、自分が思い描いていた将来の夢を断念するかもしれない。
しかし、神の愛、信実ピスティスに応えて生きる時、すべてが喜びに代わることを信じ、その喜びを賛美し、信じて祈る人生でもあります。
イエス様誕生の知らせが告げられた時、天の軍勢が一斉に賛美したと聖書は伝えています。それは神の喜びです。神の愛、信実ピスティスのあふれが、神の喜びとなり、天の喜びとなり、全ての人の恐れを喜びに変えていく。神の愛が、神の決意を促し、神の決意が人の喜びとなり、喜びが決意を促し決意が喜びとなる。そして、喜びは賛美となり、賛美は祈りとなるのです。(2019年12月15日説教、S.K)