出エジプト記12章21~28節
おはようございます。共にあるこの日、この時を感謝します。「聖霊の風」が「聖書の御言葉」を今この場に届け、「過越」の風景が時を超え、心に受け継がれ、描かれることを信じ、【主】に感謝します。
今日の聖書箇所は、皆様よくご存じの「過越の儀式」の実行命令の場面です。この場面は大きく、①【主】の命令伝達(モーセ)→②命令内容(過越)→③礼拝(同意)という構成です。特に②は「過越」の具体内容が示され一般的にも有名です。いまでも、旧約に生きる人々は毎春「過ぎ越しの祭り」としてこれを家族で祝います。特別な食べ物とワイン、そして、子供の「質問」に大人が「答える」という形でその「意味」が継承される重要な「風景(儀式)」です。この人々にとって、この「風景」を語り継ぐということはとても「意味」あることです。そしてその「意味」を私たちも「聖書」を通して共有していると思われます。
しかし、よくかんがえると、ある「風景」を見てそこに「意味」を見てとれるのは、その「風景(形式)」の中にある「主題(意味)」が見えていることが前提ですね。例えば、「過越」に限らず世界には様々な儀式があります。ただそれらの「儀式(形式)」だけをいくら見ても「意味」が見えなければただの「現象、もの、こと」です。さらに拡大すると、画家の描く絵、詩人の詠む詩、音楽家の曲、建築家の立てる建物なども、「風景(形式)」
を創りますが、すぐに「意味」が見えるとは限りません。「風景(形式)」は伝達には必要不可欠なもので、これがないと伝わりません。ただ同時に、人が見る「風景」というものは、「儀式」に限らず、そこから「主題(=意味)」を汲み取ることができなければ、見えるけど見えていないということになります。そうすると、「聖書」を読む行為の大切さも、ただの「もの(形式)」としての文字を見ることではなく、そこに在る「御言葉で構成される風景=伝えるべき風景の中の本質=主題」を宝物のように探し、感じ、正しく理解し、信じ、礼拝し、伝えていこうとすること中にあるのかなと思います。何千年も前、イスラエルの民は【主】より示された未来の「風景(主題)」を信じ、礼拝(同意)をして、エジプトを出ました。そして、これを「語り継ぐ風景(主題)」として礼拝し続けています。それなら、私自身の中にもそのような大切な「語り継ぐ風景(主題)」があるのかと考えてみました。
導入が長くなりました、今日のお話に移ります。私は専門的な意味での聖書解釈はもちろんできません。よって、私自身の経験の中から、「聖書」の「御言葉」、そして気づきとしての「風景」のお話をさせていただきます。まとまりもなくお聞きくるしところもがございますがご容赦ください。
私の風景の物語です。私のクリスチャン生活はまだ短く、before C, after C で言えばbefore の「風景」は、まだ色濃く残っています。例えば「過越」は、幼い頃、映画(十戒)で見た「塗られた血」、「滅ぼす者」、「死」というホラームービーの「風景」です。また、思い出すのは妻の実家の家庭集会やクリスマス会です。当時はまだノンクリスチャンの私です。「聖書」朗読を順番で自分に「過越」の場面がちょうどあたりそうです、これ「“す
ぎこし”と読んでいいのかな~、緊張するな~、腹減ったな~」であり、聖書朗読、賛美、クリスマスツリー、ろうそくの光、食事とワインとコーヒーの香りを覚えています。これが当時の私の目に映る「風景(儀式・形式)」であり、そこにどんな「意味」があったのかよく覚えていません。
そして時は流れました、今ではその「風景」はもちろんホラーや食事などではなく、「主イエス」へとつながる「風景(主題)」となりました、主に感謝します。私が、「風景」の中に見るものは以前と変わってきました。その変化をもたらしたものは、バプテスマを経た私、そして「教会」という共同体の一員としての「時間」、「環境」、「学習」、「経験」等様々な要因が織りなしていると思います。しかし、さらに、変わったことがあります。それは、「教会」という「場の外」にも私は「風景(主題=意味)」を探す見方をする自分に気が付いたということです。そして、その一番身近な場は職場でした。
私の仕事は「教諭」です。「教育現場」が日常の大半を占めます。なまけものの私でも、授業、授業準備、テスト作成、担任業務、校務分掌等に追われると、あっという間に1日は過ぎ去ります。そして、ここにもまた「風景」はあります。私の担当は高校です。特に3年生は「大学進学」が心の大半を占める「風景」です。ここで私は、「教会という共同体の一員」ではなく、一般社会の中での「職場の一員」、「教育的業務遂行共同体としての一
員」としての役割が求められます。興味深いのは、一見するとこの「2つの場」は全然違うのですが、ある時ふと似ているのではないかと思うに至りました。つまり、どちらも単なる「構築物(モノ)」としての「場」ではないということです。そこに集う人たちが、「教会」であり「学校」であり、「風景(主題=意味)」を作っているのです。
英語では go to church(school)は単に「(構築物としての場である)教会へ(学校へ)行く」という意味ではありません。その「場」に「参加者が機能的・有機的に関係する」ということであり、「(共に)礼拝する(勉強する)」ということです。そして、「教会」も「教育」も人が織りなす「風景」であり、そこにはかならず「主題」があるはずだ、と思うようになりました。例えば、「教会」なら、私たちは一人一人がその部分であり、その集合体が一つの「教会(全体)」となり、「モノ」以上のなにかを形成します。これが「教会」という「風景(=意味)」です。そしてそこは「御言葉」に導かれ「語り継ぐ風景(主題)」が常に「聖書」により担保されていると思います。ならば、「学校」も人が集まるのですから、単なる知識
の伝達の「場」ではなく、「教育」という「場」において「私という人間が語り継ぐものが何か」あるのではないかと、思うようになりました。ただそうすると、次の問いが出てきました。「それはなに?」「その根拠は?その担保は?」。
「問い」との付き合いは長いです、クリスチャンになる以前からあります。今まで「なぜ?何のため教えているのかな?」「その意味は?」という(かなり怖い)問いが時々意識に浮き上がりました。でも、それもまた日々の荒波に流され沈み行きます。浮かんでは沈んでの繰り返しです。そしてあるとき今度は、「なぜ?」ではなく、「私が子供たちに伝えていくべきものはなに?」という考えに突然変わりました。「教科の内容?」「受験対策?」「進路指導?」「キャリアデザイン?」いろいろ考えました。でも、それも必要だけど違う。たぶん「教育」という「風景」の中で「私という人間が伝えることができる主題は何か?」と考え始めたのかもしれません。なんだろうと、いろいろさがしました。私自身大した人間でもないし、褒められた生き方をしてきたわけでもないので、なかなか答えなど見つかりませんでした。この「問い」不意に訪れます。こともあろうに教会の礼拝中(オンラインで)の時も度々ありました(柴田先生ごめんなさいね)。そのたび、「あ~あ、もういいや、こんなたいそうなこと無理無理~」と思いました。
先日もこの「問い」は心のドアをノックしてきましたが、「こんなことしてられないよ、そういえばこんど信徒説教だ、たいへんだよ、『聖書』読まなくちゃ、あ~難しそうだな~、たしか、『「出エジプト記」のはず」、「え~と、順番で行くとたぶん『12章21~28節』あたりなのかな」、と思い聖書箇所を開きました。すると、そこには「また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答え
なさい『これが主の過ぎ越しの犠牲である。主がエジプト人を打たれたとき、エジプトにいたイスラエルの家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。」(26.27節)がありました。「どういう意味」、「こう答えよ」という部分が心の中で共鳴しました。「へ~おもしろいことな~、ここにも『質問』があるな、あれ?ついでに『解答』もあるな~」とつぶやきました。なんか「学校」みたいだと感じました。ふと、もしかしたら私の求め
るものはこの「風景」のなかにあるのではないかと思いました。でも、これは「教育」ではあるが「信仰の教育」だし、「学校」ではちょっとちがうかな、と思っていると、ある考えがひらめきました。「違う」のではなく「同じ」なのだ。もしかしたら「教育」と「教会」の両者に自分の求める「風景」の「主題」は同じでもよいのではないか、ということです。
「信仰」が私の中にあるとすれば、「主イエスを信じること」「自分が救われたこと」「イエスキリストの振る舞いに似ている行いをすることを目標とすること」である、ならば、どの「場」であろうと、私の答えの「根拠(担保)」は「聖書」のなかの「御言葉」が伝える「風景(主題)」に在るはずだと思いました。イエス様のようにはもちろんできません。小さく、いいかげんで、弱さを露呈し、逃げてしまう自分のことはよくわかっています。でも、「祈る」ことはできます。そうだ、共にいるこの子供たちのために日々「祈る」ことならできると思いました。私の語り継ぐものは「祈り」として与えられている。「祈り」を通した「教育」は必ずや「語るべき、
継承すべき風景」を「主題(=意味)」を子供たちに伝えているはずだ、その風景を子供たちは受け継いでいってくれるはずだと思いました。先生はアドバイスが仕事です。アドバイスは基本「上から目線」です。これは役割としては仕方がありません。でも、心の中では低い姿勢で神様を礼拝し、人を、他者を、小さく弱いものを、私たちを未来に語り継ぐであろう子供たちを、上から踏みつけることなく、「祈り」と共に過ぎ越していくことがで
きれば、それが私に与えられた「風景(主題)」であると思うようになりました。 主に感謝します。アーメン。