11節「マリアは墓の外に立って泣いていた。」
マリアの涙は、私たちの涙でもあるでしょう。私たちも今、先の見えない不安の中で、混乱の中で、涙を流している。手を取り合う事、ぬくもり、一緒に食べることを奪われている。もちろん、ウイルスに感染しないための対策は大切です。しかし、それが優先されて、私たちは引き裂かれ、分断されている。私たちの中にも、泣いているマリアを見つけるのです。

そんなマリアに、私たちに、主が呼びかけられます。「なぜ 泣いているのか」神さまは、泣いている私たちをほっておかれない。見ておられ、語りかけておられる。

そんな主の語りかけに、マリアは躊躇なく素直に答えます。そして、後ろを振り向きます。そうです。主の語り掛けは、語りかけられた者に振り向きを与えるのです。下を向いて泣いていたマリアが、顔を上げ後ろを振り向いたように、主の語りかけがマリアの視線を変えさせるのです。

しかし、マリアは、この語りかけた方がイエス様だとはわかりません。確かにその姿が目に映っているにもかかわらず、それが復活された主イエスだとは思いもしなかったのでしょう。そこで、イエス様が呼びかけられます。「マリア」

私たちの苦しみは、続くことはありません。必ず終わりが来ます。十字架で死んだ、死んで葬られたイエス様を、復活させてくださった神さまは、その同じ復活の力で、私たちを包んでいてくださる。そこにおいでと名を呼んでいてくださるからです。

マリアは弟子たちに証言しました。「私は主を見ました。」
さあ、今、目を上げて、復活の主の呼びかけを聞きましょう。あなたの名を、主は呼んでおられます。