出エジプト記3章4~14節 2020年8月16日
神さまからのプレゼントを 緊急事態宣言も延期され、私たちも8月いっぱい、会堂での集会休止を延長いたしました。くれぐれも、心と身体を大事にされてください。
神様のみ言葉を思いめぐらす、黙想の時を持っていらっしゃるでしょうか。神様があなたをどれほど愛し、心配し、呼びかけ続けておられるかを、そういう私たちにとって、宝物のような時間をいただき続けていきたいと思います。そして、前にお話ししましたけれども、その神様の前での黙想、沈黙から神様への祈りが起こされてゆきます。
時として、祈りが義務の様になってしまうことがあります。違いますよね。神様が祈りをあたえてくれました。プレゼントです。テサロニケを想い起こしてください。「あなたがたは、悪をもって悪にむくいることのないように気をつけなさい。お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも、善を行うように努めなさい」
善を行うとは、なにか、神様にふさわしいことをやらなくっちゃでは、ありませんでしたよね。とんでもない迫害下の中にあっては、もう憎しみ、敵意と、怒りでいっぱいになってしまう。でも、その憎しみ、敵意や怒りが、あなた自身を縛り付けてしまうし、相手との関係も、傷つけあうばかりです。 「だから、神さまからのプレゼントを受け取りなさい。神様からの喜びを受け取りなさい、神さまからの祈りを受け取りなさい。神様からの感謝する思いを受け取りなさい。」
「どんな状況にあっても、あなたがたは喜び、祈り、感謝できるよ」。なぜなら、それらは、神様からのプレゼントだからです。そして、そのプレゼントで生きていくことが善を行うこととパウロは伝えているのです。
本日はAPBF(アジア太平洋バプテスト連盟)サンデーで、アジア太平洋地区のバプテストの兄弟姉妹が心を合わせて祈るときです。 今日に合わせて、「共に祈る力」というAPBF会長のメッセージと、ヴイ総主事の挨拶と、諸国の祈りの課題が送られてきたのですが、それを、実子さんに訳していただきました。菊秀さんも、ご一緒に翻訳作業をになってくださいました。これをOBC諸教会に配布していますし、OBCのホームページにも掲載されていますし。もちろん、首里教会のホームページにも掲載しています。ぜひ、じっくりメッセージを読んでいただき、そして、特に、諸国の祈りのリクエストを祈りましょう。
愛し、心配し、呼びかけ続ける神 冒頭話しましたように、神は、いつも、あなたを愛し、心配し、呼びかけておられるのです。
今日登場してくる、モーセはどんな心境にあったのでしょう。ボロボロだったんです。エジプトの王子として、エリートのように育てられ、なんでもできる自負に満ちていました。しかし、同胞のヘブライ人を守ろうと思って、エジプト人を殺してしまい、ヘブライ人同士のけんかの仲裁もできずに、逆に同胞のヘブライ人からも嫌われていることに気づかされます。さらには、エジプトのファラオから、殺人の罪で追われる身になります。
ミディアンの地に逃亡し、そこで40年間過ごしました。その間、ずっとあの忌まわしい過去がモーセを苦しめたでしょう。消そうとしても、消えない思いです。そして、自分の子供に名をつけた理由が「わたしは異国にいる寄留者だ」このつぶやきが、モーセの心模様を表しています。
そんなモーセを、神は見つめておられるのです。モーセがお世話している羊たちが不思議に荒れ野の奥に、モーセは追っていくのですが、そうやって神の山ホレブに導かれ、そこで、モーセ、モーセよ。その呼びかけを聴くのです。そう呼びかける神は、すでにモーセの傷も悲しみも、鬱々とした思いをすでに分かっておられる。そういうモーセの名を呼ばれるのです。
元気で、なんでも順調で、よく出来ているから、呼びかけるのではないのです。むしろ、逆でしょう。エマオの途上を歩く、弟子たちは、生気のないくらい表情でトボトボと歩いていました。そんな弟子たちにイエス様の方から近寄り、「どうしたのか、何があったのか」と呼びかけてゆかれます。モーセのことが心配でたまらないのです。「モーセよ、モーセよ」
自ら痛み、自ら降る神 それは、モーセだけにとどまりません。3節「わたしはエジプトにいるわたしたの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者ゆえに叫ぶ、彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」その人の苦しみをつぶさに見つめる。その人の叫びをしかり受け止める。その痛みを知るということは、神さま御自身が痛むということです。これが神様です。
今、言うまでもなくパンデミックで世界中の人々が苦しみ、叫び、痛んでいます。神様が創造された大切な命が苦しみ、痛んでいる。それは、神さまご自身の痛みなのです。今、神様が私たちが痛んでいる以上に痛んでいるということです。 そう、居ても立っても居られないだから、4節「それゆえ、わたしは降ってゆき、彼らを救い出す」と宣言しておられます。 これが神様なんです。
モーセへの解放の言葉 だから、モーセに「ファラオのもとにお前を遣わす。イスラエルの人々をエジプトから連れ出してくれ」って伝えます。 当然、モーセは神さまに「神様、私が何者だというのですか。私、過去にヘブライ人の救済に失敗したばかりか、エジプト人を殺し、ファラオから逃亡した者です。しかも、その同胞ヘブライ人からも、『エジプトの王子だと!~ふざけんな!』嫉妬と憎しみの対象ですよ。そういう者が、ファラオのもとに行って、イスラエルの人々を救い出すなんて」 神様がなさることは分かりません。よりによって、このモーセにイスラエル救出を託すなんて、この世の常識ならありえません。モーセが逃げ出したファラオのところに向かわせるなんて、。 でも、この非常識なほどの呼びかけが、モーセを本当の意味で解放するのです。モーセにとって、エジプトもイスラエルも、ずっと向き合わないで逃げ続けてきたことでした。 ミディアンの地で、「もうどうでもいい!」って、あきらめて人生を過ごしていました。そんなモーセに「モーセ、おまえはここからだよ、本当のお前がここから始まる」って「さあ、今、行きなさい!」と、実はモーセ自身を解放する言葉を神は語られたのです。
「わたしはあなたと共にあろうとする」 そうはいっても、モーセの戸惑いは抑えられません。だから、神は神様が一番大事にされていることを、モーセに示すのです。「わたしは必ずあなたと共にいる」これが神様の性質そのものといっていいほどのものをモーセに与えられたのです。 この「共にいる」の「いる」はよりニュアンスを明確にすると、「あろうとする」なんです。「わたしはあなたと共にあろうとする。」 すると、よりあなたと一緒にいるんだ!っていう、神さまの強い決意と意思がより伝わっててきますね。 ただ、単に不動の神がいるとか、あるとか、存在しているということだけでなく、神さまご自身がそうしたいんだという熱烈な意思が響いてきます。 モーセ、「わたしは必ずお前と一緒にあろうとするからな。そして、これがモーセお前にとってのしるしなんだ。いつもいつも、このことを繰り返し、心に刻んでくれ。いつも思いだしてほしい、いつも心で唱え続けてほしい。これから、どうしたらいいかわからないこと、危機的なこと、八方ふさがりになってしまうこと、いろいろ起こるだろう。その時に、「わたしは必ずお前と一緒にあろうとする」このことを想い起こしてくれ。そして、現に、わたしはお前と一緒だからな!」これが神さまなんです。
神の名はインマヌエル モーセは、神さまの名を聴きました。名前というのは、その人本質を表すのです。神の名は、神さまそのものを表すのです。「わたしはある。わたしはあるという者だ」と神はモーセに応えられました。これももって的確に訳すと、「わたしはあろうとして、わたしはあろうとするのだ」これが、神さまそのものだということです。 どういうことかというと、神さまはあなたと共にあろうとするお方であり、現にあり続けるのです。そう、神さまというお方は、インマヌエルそのもの。「モーセ、お前と一緒にありたいし、あり続ける、どんなことがあっても!」これを受けたモーセが遣わされてゆくのです。
さあ、今、行きなさい。どこまでも共にいるから。 今、神は、世界中の苦悩する一人ひとりの傍らに、ありたいし、あろうとしているし、あるのです。 モーセよと呼びかけた神は、今、痛みを抱えている私たちの、あなたの名を呼びかけています。そして、モーセにプレゼントしたように、あなたにも「わたしは必ずあなたと共にあろうとする」これをプレゼントされているのです。これは、私たちにとっての宝物でしょう。 「この言葉をいつもいつも抱きしめていなさい。そのうえで、今、痛みや悲しみが渦巻く世界にあって、あなたに託したいことがあるんだ。あなたにしかできないことがあるんだ。さあ、今、行きなさい。あなたに与えられている使命があるんだよ。大丈夫、どこまでも共にいるから。どこまでもあなたと共にあろうとするから。」