ご近所では、サガリバナが満開の季節。今日の講壇のお花も、美しい夏の季節を感じさせます。

 

説教は、「み国をきたらせたまえ」。テサロニケの信徒への手紙2 1章から、柴田良行牧師です。

柴田牧師が最初に行ったキリスト教の教会とバプテスト教会では、とても違っていたそうです。最初の教会では、とても厳格に聖書を信じるように言われ、はじめは熱心に通っていましたが、次第に苦しくなり、聖書が恐ろしく感じることもあったそうです。キリスト教を離れようと思いつつバプテスト教会を覗いてみたところ、そこで、まったく違うそれぞれに働く聖霊の力を信じる聖書の読み方、民主的な教会運営の在り方、それまでと比べると自由な牧師や信徒に出会います。自分が求めていたものがバプテスト教会にはある!と思ったそうです。

一般的にカルトとされる条件に、①脅しと恐怖で信じさせる。(たとえ言い方が優しくても)②牧師が神になっている。③聖書の自由な読み方をさせない。というものがあるのですが、キリスト教会も、一歩間違えれば、聖書を自分たち教会のために利用してしまう誘惑から自由ではないということでしょう。

聖書の言葉は、歴史の中で様々に利用され、人を殺す道具にされてきました。そうならないために、神学校で学んだことは、聖書をその背景や執筆意図なども考慮しながら、「批判的に読む」ということです。批判とは非難ではなくて、客観的に理性的にも読むということです。

そう言ったことを踏まえて、今日の箇所を読まないと、恐ろしい言葉としか聞こえてきません。1章8~9節は一般論として皆に適応することではありません。迫害下にあるテサロニケ教会の人々に対して、つまり、迫害している側ではなく、迫害されて苦しんでいる人々に対して送られた手紙であるということです。ちなみに、このテサロニケの信徒への手紙2は、1とは違ってパウロの真正の手紙ではなく、パウロの名によって書かれたものと考えられています。パウロの福音理解とは少し違っているのも、そう考えられている理由にあるのです。

私たちが日々祈っている「主の祈り」に、「み国をきたらせたまえ」という言葉があります。これは、「イエスさまに会いたいです。早く来てください。」ということと同じです。つまり、終末が来ることを願っている。終末と言うと、恐ろしいと考えてしまうことは無いでしょうか。終末には裁きがあるからです。でも、終末の裁きの裁き主はイエス様なのです。そして、裁きとは明るみに出すということです。裁きは救いのためにあります。隠されたままの救いは無いからです。そして、クリスチャンであってもなくても、すべての人が裁きを受けます。何も隠す必要のない永遠の救いへと入れられるためです。だから、終末とはイエスさまの愛と平和の満ちる時なのです。

この地上の生は、迫害とまではいかなくても、大なり小なり苦しいものです。けれども、終末には必ずイエスさまが来られ、私たちの全てを明らかにされ、永遠の救いに与る神の国を成就してくださると約束してくださっています。そのことを信じ、希望として、与えられた命を今週も精一杯生きてまいりましょう。