フィリピの信徒への手紙1章3~11節

フィリピの手紙は、獄中書簡でありながら喜びの手紙と呼ばれています。パウロは福音伝道の志半ばで捕らわれ、自由に伝道できない状況なのですが、しかし、そのパウロから喜びが伝わってくるのです。パウロは、自分の状況に目を向けるのではなく、神の出来事に目を向けているからです。パウロは言います。獄にいるおかげで獄吏に福音を語ることができ、さらに同じように捕らえられている囚人たちが、パウロの存在と言葉から希望を得ている。神の福音は前進していて、たとえ私が捕らえられていようと、それは止めることはできないのだと。そして、たとえ不純な動機からでも結果として福音が前進するのならそれでよいと。

19節では「キリストが伝えられることが私の救いになる」とも言います。救いとは、一回悔い改めて新しく生まれたら、それで終わりというものではない。かといって、最初の救いは初段でだんだんと救いが高度になるというのでもない。最初の救いが100%だけれど、救いとは「救われ続ける」ということなのです。いつまででしょうか。それは救いの完成まで。つまり、キリストの日、終わりの時、キリストの再臨、神の国の到来の時です。だからわたしたちは、主の祈りで「みくにを来らせたたまえ」と祈ります。それは、みくに(神の国)がここ(地上)に成就しますようにということで、私がみ国に入れますようにではないのです。

伝道とは、「私が福音を伝える」のではなく、パウロや周りの人たちを巻き込んで前進し、広がっていくのだと、そうパウロは気づいたのです。それはつまり、「教会が、クリスチャンが、福音を伝えなくては、伝道しなくては、神さまのことを教えてあげなくちゃ」ではなく、すでに広がり前進している福音に、一緒に連なっていく、巻き込まれていく、私に私たちに与えられた仕方で。ということです。

先日、沖縄バプテスト保育連盟の研修会で、チーム緑が丘1207のお母さんたちのお話を聞く機会がありました。米軍ヘリからの落下物(いまだ米軍は認めていませんが)以来、お母さんたちはただ「安心して子どもたちを遊ばせて、生活したいだけ」「保育園の上を飛ばないで」ということだけを訴えてこられました。

お母さんたちの言葉で、心に残っている言葉があります。「いのちのことを言い続けているのは、ほおっておけないからです。このままでは、誰かが犠牲になります。そうなってからでは遅いのです」。これは、預言者の言葉と同じです。神は、いのちを極めてよいものとして創造されました。このいのちが傷つけられることを神は望まない。このいのちを共に生きる業、幼稚園、保育園の働きはそういう意味でも良い業です。「この良い業を神は初めて下さり、キリスト・イエスの日に成し遂げてくださると確信しています。1:6」

聖書は、そして、あなたの中でなく「あなたがたの中」といいます。あなたがた、つまり教会、首里バプテスト教会です。私たち、首里バプテスト教会は福音の中に入れられ、そして、福音の前進に加わっている。これこそが、パウロの喜びであり、キリストの、神の喜びなのです。