10月になって、2018年度後半に入っていきます。クリスマスまで3か月…教会は色々と落ち着かない季節ではありますが、楽しみな季節でもあります。
子どもたちも、学校が忙しくなる季節。でも、今日は秋休みということもあり、たくさん来てくれて嬉しいおやこ礼拝でした。

今日の礼拝メッセージは、いわゆる「宮きよめ」といわれることが多い箇所ですが、実はイエスさまが否定していたのは商売ではなく、「犠牲」だったというお話でした。
この箇所は、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの4つの福音書全部にのっていますが、今日取り上げたヨハネでは特にそういう描き方がされているそうです。
「犠牲」とは、律法を守れず罪を犯してしまった自分の代わりに動物を犠牲としてささげてきよめてもらうという神殿儀礼ですが、そういう在り方によって本当の救いから離れている人々を嘆かれ、ご自身の十字架の犠牲以外の犠牲はもう必要ないのだということが、イエスさまの主張だったというわけです。
教会は、時に犠牲を美徳と考えてしまいがちですが、聖書はそうは言っていないのですね。聖書には「友のために自分をささげること、これよりも大きな愛はない」といった箇所があり、戦争時に靖国神社もこれを引用して、国のための犠牲を強いた歴史がありますが、これは、イエス・キリストによるただ一回の犠牲の愛のことであって、この一文だけを取り上げて誤解されるのは聖書の本意ではないのです。そうでなければ、イエスさまの十字架が意味の無いものになってしまいます。
「誰も、何からも、犠牲になってはいけないし、誰も犠牲にしてはいけない」という福音を嬉しく聞きました。