佐々木和之さんをお迎えしての主日礼拝。ヘレンさんとオクターヴさんの二人の学生も一緒です。
佐々木さんは、この4年ほど毎年、教鞭をとっておられるPIASSの学生をつれて沖縄を訪問されています。それは、非暴力で平和をつくる戦いをしている沖縄の方々の姿を見て、学んでほしいという願いからだそうです。今回来られたお二人の学生さんたちは、20歳と23歳という次の時代を担う若者たちです。佐々木さんは、彼ら若い人たちこそ、アフリカ太湖地区の平和実現の希望だとおっしゃいました。沖縄でも同じだと思わされます。沖縄の若者たちが世界の若者たちとつながっていくときに、互いを知り受け入れあい平和はそこから芽生えていく希望を思い、嬉しくなります。
佐々木さんが選ばれた聖書は、エレミヤ29章10~14節です。この箇所は、実は佐々木さん自身がルワンダの最近の政治状況から暗い気持ちにされている時に出会った箇所だそうです。ルワンダは、急激な発展を遂げているように表向きはなっていますが、実際は政権与党の1党支配が続き、このところ野党議員が相次いで殺されたり、つい先日は与党議員が殺されるなど、一発触発の状況だそうです。報道の自由が世界で155位というルワンダ。(実は日本も60位代に下落中だそうです)
そんな中で、エレミヤ29章4章以下、「異郷の地に根差して生きよ。バビロンの平和のために祈れ」というみことばに出会います。自分たちを支配する国からすぐにでも故郷に帰りたいと願う民衆にとって、このエレミヤの預言は到底受け入れられませんでした。しかも70年辛抱すれば変えることができると続きます。70年とは、すでに人生の後半を生きているものにとってみれば、生きて故郷に帰ることはできないことを意味します。当然、このようなエレミヤの厳しい預言は、他の偽預言者が伝えた甘い言葉にかき消されてしまったのです。
しかし、私たちはこのエレミヤの言葉から神の希望の約束を学ぶことができます。
①神の希望の約束は、神の定めたときに実現するということです。ですから、私たちはそれを見ることができないかもしれない。では、絶望なのか?否。私たちが望み見ている平和の実現への希望は、つながれてゆくのです。誰にでしょうか。次の世代へとです。希望はつながれていく。私たちは、その希望の民なのです。
②神の希望を生きる私たちは、しかし、安全や幸福が保証された中で生きるわけではないということです。神の平和と和解の働きに深く関わって生きる時には、むしろ、私たちは苦難を得ます。自分の安全と幸福だけを追求している時には遭遇しえない苦しみ、悩みを背負うことになります。では、それは愚かな生き方でしょうか。そうです、愚かな生き方です。しかし、その愚かな生き方をまさに生きられた主イエス・キリストが、私たちに伴ってくださいます。その生き方の中でこそ、私たちは主と出会うことができるのです。
③神の希望の約束を生きるとは、心を尽くして祈る歩みです。神の希望の約束、平和の計画は、時に私たちから隠され見えなくなるからです。絶えず神の希望の具体的な姿を祈り求め、時には神に対して叫び求める歩みでもあります。「主よ、なにゆえですか。」「主よ、いつまでなのですか」と。
かつて首里バプテスト教会を担い、神の平和の希望を信じて歩んでおられた方々から、私たちはその希望の約束を受け継いで今を生きています。その私たちは、先輩方が願いつつ見ることのできなかった神さまの平和のご計画を信じて今を歩みましょう。そしてまた、この私たちが望み見ている神さまの平和のご計画の希望が、次の世代につながっていくことを信じ、そのためにも祈り、共に歩むものとされていきましょう。