礼拝の最中に急に雨が降ってきて、礼拝堂の天井から激しい雨音が聞こえました。先週は2月だというのに夏のような暑さで、今朝も暖かかったのに、雨と共にひんやりした風が吹き始めました。

そんな中、「多くのことに思い悩み、心を乱している」というイエス様の呼びかけを聞いた主の日の礼拝でした。

ルカによる福音書10章41節から11章2節が今日の箇所。みんな聖書を開いて「?」。いわゆるマリアとマルタのお話の後半と主の祈りのお話の途中までが、その箇所だったからです。でも、柴田牧師は聖書の章や節は後から便宜上挿入されたもので、小見出しも便利だけれど、本当に聖書が語るメッセージを聞くことの邪魔をしているかもしれない、とおっしゃいます。
今日の箇所は、マルタへのイエス様の呼びかけとイエス様ご自身がマリアのように祈ること、神さまのみことばに聞くことを大切にされたということを重ねて語られ、違う話なのではなくてつながっているのだと読むことができました。聖書って、面白いですね。

マルタはイエス様をもてなすことが大切な事だったのに、マリアの姿を見て心が乱れてしまった。そんなマルタの姿は、教会の奉仕で疲れてしまう自分に重なります。喜んで奉仕していたはずなのに、愚痴が口をついて出る時、私達にも「〇〇、〇〇、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」というイエス様の声が聞こえてくるようです。さあ、立ち止まって祈り、神さまの声に耳を傾けてごらん、と。

礼拝の中で、Iさんの証しを聞きました。ずっと信じられないで生きてきたけれど、ある時、み言葉が心の中に入ってきて、イエス様が出会ってくださって、成長させてくださった。イエス様は待っていてくださった。というお話でした。 クリスチャンであっても、日ごろ聖書を読んだり祈ったりしていても、み言葉や祈りの中で本当に神さまの語り掛けを聞いたり、力をいただく経験は、いつでもあるわけではありません。必要な時に、神さまの定めた時に、私たちは新しく生まれる経験をするのです。

主の祈りは、イエス様の祈りです。そして、イエス様によって、私たちもまたその祈り、イエス様と神さまの交わりに入ることを許されています。さあ、イエス様と共に祈りましょう。神さまの声に耳を傾けつつ、前を向いて歩いていきましょう。