5月も最後の主日になりました。梅雨だというのに、うりずんのさわやかな数日を過ごし迎えた主日です。
詩編121篇より「主が見守って」という説教でした。
121篇は、初めて一人で都もうで(年に一回の礼拝のためにエルサレムまで出かけていくこと)をする人とその人を見送る人の歌なのだそうです。
1~2節は、主語は「わたし」なので旅人の旅への不安や祈り、3節以降は主語が「あなた」なので、見送る人の祈りと考えられます。
当時の旅は、今のような快適で便利なレクリエーションではなく、命がけのものでした。無事を願い、神さまの守りを祈るこの祈りが、どんなに旅人を励ましたことでしょうか。「主の見守り」という祈りの言葉が6回も繰り返されています。
クリスチャンにとっては、祈りは生きることそのものであり、キリストを愛することでもあります。祈りといっても、祈願やお願いではなく神さまのみ心を知ること、神さまとの深い対話なのです。ですから、祈りはまず沈黙することから、目や耳だけでなく心も沈黙して心から神さまへと向かいます。
マザーテレサは、貧しく死にかけた人々に仕える過酷な奉仕へと向かう前に、毎朝2時間祈ることが彼女の秘密だと言っています。神さまに向けて心を注ぎだして祈る時、私たちは自分のことだけでなく他者へと神さまが向かわれていることを教えられ、他者のために祈り、行動することへと向かわされていくのです。祈りは隣人を与え、祈り合いへと開かれていくのでしょう。
今週私たちは、誰のために、どう祈るように、招かれているのでしょうか。少しだけ沈黙して神さまに心注いでみることから始めてみたいと思います。