6月も最終日の主日礼拝は、旧約聖書のコヘレトの言葉からの説教でした。
コヘレトは裕福でかつ教養もある人で、手に入れたいものは何でも手にしたけれど、それでも何かが満たされずに求め続け、結局「知恵が深まれば悩みが増す」という境地に至りました。人生は、自分の願いや思い通りにはいかない、しょせん人生とは空しいものだと。
コヘレトの言葉の3章には、何事にも時があるという言葉があります。すべてのことには時がある。コヘレトはそのすべての時は所詮空しいと嘆きます。けれども、そんな空しい時にさえ、神は伴っておられるということに気づくのです。なぜなら神は人に「永遠を思う心」を備えてくださっているからなのだと。私たちは、今の時が楽しければその時を楽しみ、苦しければその時を呪う。私たちが今の時に支配され、過去に支配されて生きるなら空しい。しかし、神は永遠を望み永遠のいのちに生きる道も用意してくださっているのだと。
永遠の命とは何でしょう。残念ながらわかりません。私たちが神を知り得ないように、永遠の命とは知って理解したり所有できるものではない。ただ、神のことを思う気持ちだけで十分なのです。「あなた方に与える」という約束を信じて、永遠を思いつつ今を生きる。今週も、それぞれの場所で生きるお一人おひとりが、主と共にあり祝されることを祈りつつ。