毎月第四主日礼拝では、教会の方の証しを聞いています。今日は、T.Tさん。沖縄戦当時小学1年生で、一日でも長く生きたいと、友人の家族について島尻から山原まで歩いて行ったそうです。今思うと、友だちはお母さんのモッコに担がれていたけれど、自分は神さまのモッコに担がれていたのだと、そして、その後の人生もインマヌエルの主が共にいて担いでくださっていることに感謝という証しに感激しました。

説教は、テサロニケの信徒への手紙Ⅱ3章1~5節。テサロニケの信徒への手紙も、最後になりました。

テサロニケの信徒への手紙Ⅰのパウロの言葉「憎しみ、苦しみ、悲しみ、悪を主に委ねて、あなた方は善を行いなさい」。善を行うとはつまり、喜び、祈り、感謝することです。しかもそれは、私が頑張るのではなく、私たちより先に、喜び、祈り、感謝される主がいるから、私たちはその主に倣えばよい、真似すればよいということなのです。その根拠が、今日の箇所3節「主は真実な方です」です。真実とは説教題にもあるように信実と書いた方がよい言葉です。ギリシャ語ではピスティス、信仰とも訳せます。ガラテヤ所にある「イエス・キリストへの信仰によって義とされる」もピスティスが使われていて、その真意は「イエス・キリストの信仰によって義とされる」ということなのです。つまり、私たちの信仰によってではなく、イエスさまの信仰・真実によって、私たちは義とされるということです。

マザーテレサは、「人が何といおうと、気にすることなく善を行いなさい」と言われました。毎朝の2時間にも及ぶ清聴・黙想の中で、主の喜び・祈り・感謝に満たされていたからこそ、彼女はどんなことにも屈することなく「善を」彼女のすべきことを出来たのでしょう。わたしたちも、同じようにどんな時も善を行うことが出来るものとされています。なぜなら、主が信実な方だからです。

主は言われます。「あなたが私を嫌っていても、私はあなたを愛している」。主の信実は、生涯私を(あなたを)おおっているのです。だから、何があっても、心を騒がせず、落ち着いて、善を行い続けることが出来ます。だから、私たちは、与えられた今日一日を、平安で、安らかに生きることが出来ます。

コロナ禍の今、毎日のニュースに一喜一憂せず、主イエスを見つめ、主と共に、隣人と共に、歩んでまいりましょう。